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第一章 少年時代 2 平和な日々③~小学生
五年生になると六時間授業の日が増え、まだ二年生の馨と比べると遼真の帰りは遅くなる。クラブ活動や委員会活動もしなければならない上、さらに放課後に校庭で遊んだりするものだから、帰りはますます遅くなる。
その日も、委員会活動の後にクラスの友達とキックベースをやって遊んだ。夕方五時のチャイムが鳴って解散し、遼真は慌ててバスへ乗り込んだ。馨はとっくに家に帰っているだろうと思っていたのだが、最寄りのバス停の錆びたベンチに、見慣れたランドセルが放置してある。しかしその鞄の主の姿はない。
「馨ちゃん?」
人攫いか迷子かと不安になって呼んでみる。返事がないので焦って大声を出してみると、河原の方から微かに声がした。
「馨ちゃん!」
「りょーまにいやん?」
「何しちゅうが、こがなとこで!」
「ん……ザリガニ、釣っちょった」
馨はあくびをし、まぶたを擦って辺りを見回す。
「ひょっと、寝ちょったがか?」
「んー……りょーまにいやんの帰り待とう思うて、やけど暇で……暇やき、ザリガニ釣ろ思て……ほいたら寝ちょった」
岩ばかりの河原で呑気に何をしているのかと言いたくなる。寝るにはいい環境ではないし、もし流されでもしたらと思うと肝が冷える。
「ここ、草が生えちょって気持ちえいがじゃ。ほんでお日さまがぬくいき、眠うなった」
「いかんちや、馨ちゃん。こがなとこで寝よったら風邪引くきにゃ。もし僕が見つけざったら、晩までここにおることになったぜよ」
「けんど見つけてくれたがじゃ。りょーまにいやん、かおるのこと心配したが? どこ行っつろーて思た?」
「思うたよ。あんまり心配させんで」
ズボンの泥を払ってやり、帰路に就いた。
二年生になって昨年よりも授業時間が増えたのに、相も変わらず遼真と一緒に下校できる日が少なくて寂しかった、と馨は説明した。
「今日もにゃ、ほんまはりょーまにいやんとザリガニ釣りしたかったがやけど、委員会で遅うなる言うき一人で遊ぼう思うてにゃ。集会でマイクの準備しゆうりょーまにいやんはかっこようて好きじゃけど、会えんようになるがは寂しゅうて……ほんで、ここで待っちょったら会える思うて、やき待っちょった」
手を繋いで坂道を上る。遼真は馨のランドセルを持ってやった。
「やけど馨ちゃん、こがなとこで待っちゅうがはいかんちや」
「どういて? りょーまにいやんと会えたき、えいやいか」
「何も言わんで家に帰らざったら、おかあやんが心配するろう。きっと心配しちゅうよ」
「ほうかえ」
「次からは、待つなら学校か家で待っとうせ。ほいたら会えるきに」
「ん……えいけど、もっと遊びたい……」
「ほいたら、明日はこじゃんと遊ぼうにゃ」
家に着いたが、馨の母はそれほど心配はしていないようだった。どうせ遼真と一緒だと思っていたし、それでなくても宿題もせずに遊び回っているような子だから、ということらしかった。遊びもいいけど宿題はちゃんとやりなさいよ、と馨は叱られた。
*
夏休みは馨が寂しがる暇もなく、二人はほとんど毎日一緒に遊んだ。遼真は八時頃起きて宿題をやり、昼食を食べてから馨の家へ赴く。鍵など掛かっていないので勝手に家に上がらせてもらうが、馨は計算ドリルを開いたまま大の字になって昼寝をしている。
「馨ちゃん、起きぃ」
「んにゃ……りょーまにいやん、おはよぉ」
「午前中は宿題やる約束やったろう。ずっと寝よったが?」
「だって暑うて」
「扇風機があるろう。がんがん回っちゅうよ」
「暑いもんは暑いが! 宿題なんかどうでもえいき、はよ遊ぼぉ」
馨は宿題を放り出して玄関へ駆けていく。開いたままのノートを見てみると、昨日から一文字も進んでいなかった。
「馨ちゃん、このペースじゃあ夏休み終わるまでに宿題終わらんよ。三十一日に泣きながらやる羽目になるぜよ」
「まだまだ夏休みは残っちゅうき平気じゃ。りょーまにいやん、今日は何する? かおる、川行きたいにゃあ」
馨は麦わら帽子を被って虫捕り網を持ち、出かける準備は万端である。遼真は浮足立つ馨を捕まえ、机の前に座らせた。
「えいか、馨ちゃん。まずこのカードを見るがじゃ」
三色の色画用紙を組み合わせて遼真が手作りした、馨専用ご褒美スタンプカードである。勉強嫌いの馨のために、遼真が一所懸命に考えて作ったものである。
カレンダーを模した形式で、一日一ページ以上勉強した日にはスタンプが一個もらえる。一ページに満たなければスタンプはもらえず、その日の欄は永遠に空白のままとなる。一週間続けて頑張れば金ピカシールを貼ってもらえるが、一日でもサボればもちろんもらえない。
「よう見ぃ、馨ちゃん。今日一日サボってもうたら、今日の欄にスタンプもらえんようになるぜよ。せっかく今日までがんばっちゅうのに、ほいでもえいが?」
馨は唇を尖らせて目を逸らす。
「けんどぉ、もうそのスタンプ飽きてもうた。他のがえい」
「ほんなら、今日は別のスタンプ押しちゃるき」
「にゃ……け、けんど、もう金ピカシールもいらんもん」
「ほんなら、今週はもっと豪華なシール貼っちゃる」
馨はカードと対峙して葛藤する。宿題はやりたくないけどスタンプカードは埋めたい。別のスタンプも豪華なシールも気になる。せっかく今日まで頑張ってきたのだからここでやめたらもったいない……などという心の声が聞こえてきそうな表情をしている。遼真は面白くなって、声は出さずに笑った。
「それににゃあ、馨ちゃん。もしも毎日がんばって全部の欄埋めれたら、最後に特大ご褒美あげるち言うたやか。ポケモンのレアシールぜよ。馨ちゃん、ポケモン好きやろう?」
「ぅうぅぅん、ほしい」
「ほいたら、まずは一ページだけでえいき、やってみよ」
「……うん」
馨は頷いて鉛筆を持った。
何も毎日毎日こんなことを繰り返しているわけではない。遼真が来る前に宿題を済ませている日もあれば、半分ほどやって漫画を読んでいる時もあるし、今日みたいに一文字も書かずに昼寝していることもある。今日はたまたまやる気が出なかっただけで、だからこういう日は遼真が馨を鼓舞するのである。すると大概やる気になってくれる。
勉強の後はもちろん遊んだ。川の上流の、流れの緩やかな浅瀬で、裸になって水遊びをした。ザリガニを釣り、小魚を捕まえようとして逃げられた。帰りに夕立に降られ、大きな木の下で雨宿りをした。雨上がりの夕空ははっとするほど青く染まっていた。
*
季節は巡り巡って、馨は三年生に、遼真は六年生に進級した。遼真の成績は上々、馨は中の下といったところだ。しかし馨だってもう三年生で、授業時間や科目数も増え、後輩の数も増えて、ようやく自立心というものが芽生えてきたらしい。一人でも宿題をやるし、昼休みはグラウンドで級友と遊ぶ。
とはいえ、基本的には遼真と一緒にいることが多い。登下校はもちろん、雨の日の休み時間などは遼真のいる図書室へと足を運ぶ。漫画以外はほとんど読まないくせに、遼真がいるからという理由で図書室へ行くのである。遼真が勧めてくれる児童書のページを捲り、窓を濡らす雨音を聞いて過ごす。
休日や長期休暇も、相変わらずほとんど遼真とばかり遊ぶ。クラスの子と児童館へ集まってボール遊びをすることもあるが、稀である。二人で遊ぶ時、キャッチボールやバドミントンをすることもあるが、やはり自然の中で遊ぶことが多い。夏も冬も関係なく、自然の中を駆けずり回ってばかりいた。
そうやっていっぱい遊んで食べて眠るうち、いつのまにか体も心も大きく成長する。遼真と馨も例外ではない。この春、遼真は小学校を卒業する。
雪が解け、清流がさらさらと音を立てる。草木は芽吹き、桜の蕾が膨らみ始める。風は和らぎ、鶯がさえずる。まだ幾分か肌寒い早春の朝だ。いつも通りの通学路なのに、何か景色が違って見える。服装のせいか、はたまた感傷に浸っているせいか。
狭い体育館にはパイプ椅子が並び、壁一面に紅白幕が張られている。馨達在校生がせっせと準備したものだ。卒業生の真新しい制服の胸元には花飾りが付けられる。お互い飽きるほど知っている顔ぶれなのに、なぜか新鮮味さえ感じられる。卒業生代表として答辞を読む遼真の姿は群を抜いて凛々しかった。
式後、馨は校庭の遊具で遊びながら遼真を待っていた。最後のホームルームを終えて六年生が校舎からぞろぞろ出てくるなり、遼真の元へと駆けていく。
「卒業おめでとう! りょーまにいやん」
「ありがとう、馨ちゃん」
「制服似合っちゅう」
「ほうかにゃあ。大きめに作ったき、ぶかぶかしゆうよ。袖も裾も余りよる」
「ううん、似合っちゅう。中学生にしか見えんぜよ」
馨は興味本意で、ぺたぺたと遼真の制服を触る。黒の詰襟、金ボタン。一度見せてもらったことはあるが、明るいところで見ると印象が変わる。
「はぁ、かっこえいにゃあ、制服。りょーまにいやんばっかりずるいちや。わしも早う着てみたい」
「馨ちゃんはすぐに汚しそうじゃ」
「汚さんよぉ。それより、早う帰ろ。うちのおかあがケーキ作って待っちゅうき」
「ほんまに? ほいたら、はよ帰らないかんにゃあ」
「ほいで、晩はりょーまにいやんちでごちそう食べるろう? わしもうまっこと楽しみで、昨日は全然眠れざった。おばちゃんが作る唐揚げ大好きやき。あとハンバーグと、ポテトと、エビフライもえいにゃあ」
「えいねぇ。楽しみやね」
学校前のバス停から路線バスに乗る。このバス停から乗り降りするのも馨と一緒に下校するのも今日で最後なのだろう、と遼真は一人感慨に浸った。馨はというとあまりそのような感慨はなく、今夜の祝いの席のことで頭がいっぱいになっているらしかった。
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