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第五章 里帰りと置き土産 1 帰省

 容赦なく照り付ける太陽。じりじりと騒がしい蝉の声。微かに感じる潮の香り。そして田舎特有の土のにおい。 「さすがにこっちは暑いねぇ」  遼真は手をうちわ代わりにして扇ぐ。飛行機を降りた瞬間から汗みずくである。 「……にゃあ、りょーま」  馨は声のトーンを落として言う。どこか不安げな表情だ。 「や、やっぱりわし、帰る……」 「今更何言うてるの。もう迎えも来ちゅうのに」 「けんど、今ならまだ戻れる……」 「いかんよ。ここまで来たがやき、お母さんに顔見せんと。実家には電話したがやろう?」  馨は気まずそうに首を横に振る。遼真は呆れたように肩を竦める。 「連絡したち言うたやか。馨ちゃん、そがぁに帰りとうないの?」 「ちゃ、ちゃうけんど……どげな顔して会うたらえいかわからん」 「普通でえいがよ」  ロビーには遼真の母が待っていた。馨の顔を見るなり、感極まったように立ち上がる。 「あんれまぁ馨ちゃん。まっこと久しぶりやねぇ。何年ぶり? こがぁに大きゅうなって」  決まり悪そうに背後に隠れた馨を、遼真は無理やり前に押し出す。 「遼真から話は聞いちょったけど、まっさかねぇ、こがぁに立派になってねぇ」 「はぁ、えー、あのぉ」 「話は後でゆっくりねぇ。おばちゃんが送っちゃるき、早う車乗り」  空港から高速道路を使って一時間とちょっと。二人の生まれ育った故郷へと帰ってきた。遼真はおおよそ一年ぶりくらいだが、馨が帰ったのは成人式以来だ。何も変わっていないといえば変わっていないし、変わったといえば変わったようにも思える。埃っぽい土のにおい、咽せ返るような草木のにおい。元気に飛び交う虫、鳥。  車はまず馨の家の前で停まり、馨はそこで降ろしてもらった。遼真は、後でまた遊びに来るからと言って、車に乗って帰ってしまった。馨はすっかり一人きりだ。重い足取りで、玄関の呼び鈴を鳴らす。  扉はすぐに開いた。母親が顔を出し、声もなく瞠目する。 「……ただいま」 「……あんれまぁ……誰かち思えば……」  しみじみと馨を見る。 「……まぁえいわ。早う上がり。仏さんに線香あげぇや」  母はあっさりと家の中へ戻った。馨はしばし立ち尽くしたが、再度促されて家に上がった。  庭もそうだが、家の中も昔と変わっていなかった。玄関の靴箱も、傷の付いた濡れ縁も、やけにひんやりする廊下も、キッチンのガラス戸も、破れた障子や色褪せた襖もそのままだ。ただ、茶の間の畳だけ新しくなっていた。 「全くあんたは、勝手に上京らぁてして、連絡一つ寄越さんで。かと思うたら急に戻ってきよって。何ね、全く」 「……ごめん」 「怒っちゅうわけやないけんど。まぁ、元気そうで何よりやわ。東京のお土産、何かないかえ?」 「……東京バナナなら買うてきたけんど」 「あら、えいやないの。お茶沸かしよるき、はよ食べよう。奥でおばあちゃんが寝ちゅうき、あんた起こしてきて」 「親父は?」 「ちっくと用足しに行っちょる。すぐ戻るち」  馨の顔を見た祖母は少し涙ぐんだ。元々無口な父はただ久しぶりだなとだけ言った。家族四人で卓袱台を囲み、おやつにした。数年ぶりに会うというのにそんなことを微塵も感じさせないような、まるでこの家に住んでいた頃、学生時代にでもタイムスリップしたような心地がした。 「おまん、東京で何しちゅうがよ」 「何もしやせん。遼真ん家に居候しちゅう」 「あんたはほんまに遼真くんが好きやきねぇ」 「別に、遼真が一緒に住まんか言うたき……二人で住むと、家賃が安うて済む言うて」 「ふぅん、最近はそがなんが人気ながかねぇ。てらは? とかなんとかいう」 「わしらぁは、そがなんとはちゃうけんど」 「ま、遼真くんと一緒なら安心やね。元気でおるなら東京でもどこでも勝手に行ったらえいのよ。ただ、これからはもうちっくと連絡しぃ」  夕方、約束通り遼真が遊びにやってきた。夕食までに帰るからと言って、二人で散歩に出かけた。ヒグラシの鳴く山道、涼やかな小川のせせらぎ、梢を揺らすそよ風。何もかもが懐かしい。懐かしいようでいて、目を見張るほどに新鮮だった。 「どう?」 「何が」 「帰省してみて。恐れていたことは起きたかい」 「別に、何も恐れてなぞおらんし……普通やった」 「ほいたら、えかったにゃあ」  小学校の通学路、ザリガニ釣りをした河原、吹き曝しのバス停、年季の入った郵便局、それから、昔懐かしい駄菓子屋。お菓子も玩具も、昔は何でもこの店で揃えていた。 「せっかく来たがやき、何か買おうや」  馨は店先のアイスケースを覗き見る。 「何がえいかのう。バニラ、チョコ、オレンジ……スイカバーもえいにゃあ。ソーダもえいし……あっ、この半分に割れるやつ、これ昔はよう食ったにゃあ。りょーまと半分こして。懐かしいのう」 「……けんど、今日はやめとこ。ガリガリ君でえいやか」 「りょーまは何も買わんがか?」 「うん。夕ご飯近いき、何もいらん」  結局、馨だけがソーダ味のアイスを買った。駄菓子屋の女性店主はすっかり老いていたが、以前にも増して口は達者なようだった。長々とした世間話が始まろうとしたので、二人は適当にあしらって退散した。  アイスを手に、神社へと走る。樹が鬱蒼と生い茂り、境内が狭くなっていた。昔よく遊んだ鉄棒は錆びていて、シーソーは撤去されていた。夏だからなのか、いやに雑草が目立つ。本殿も手入れが行き届いておらず、相当ガタが来ているようだった。 「なんや、思うてたんとちゃうにゃあ」  馨は呟いてアイスの袋を開けた。丸太を倒しただけの、ベンチとも呼べないような段差に腰掛ける。なぜか湿っていて、尻が濡れた。  家に帰ると、夕食ができていた。揚げたての天ぷらと、茄子のお浸し、何かの煮物、数種類の漬物、しょっぱい味噌汁、デザートには桃。それから豪勢に刺身と、少し高いお酒。昔から、ごちそうといえば刺身だった。  お腹いっぱい食べて、正方形の狭い風呂に入って、二階にある自室で眠った。家具等はほとんど手付かずのまま放置されていたが、掃除はきちんとされていた。    *    翌朝。薄明の時刻に馨は目覚めた。外へ出て、新鮮な空気を吸い込む。東の空が白み、辺り一面朝靄に包まれている。川のせせらぎ、小鳥のさえずりが木霊する。  馨はおもむろに歩き出した。遼真の家に着き、前庭を抜け、玄関ではなく縁側からこっそり上がり込んだ。遼真の部屋の位置は把握している。そろそろと障子を開けると、タオルケットを一枚掛けて気持ちよさそうに眠っていた。 「……りょーま」  小声で呼びかけても起きそうにない。馨はもっと中へ入って、遼真を揺り起こそうとする。 「りょーま、起きぃや」  遼真は、寝言だか何だかわからない唸り声を発するだけだ。もっと激しく揺すろうと思って腹部に両手を置いたら、なぜか遼真の手が伸びてきて抱き込まれ、布団に引きずり込まれた。 「っ、りょ……」  馨は狼狽えたが、遼真はまだ眠っているようだった。規則正しい寝息と心音が聞こえる。しかし腕の力は強く、馨は逃げ出せそうになかった。 「りょーまぁ、ほんまは起きちゅうろう」 「んん……かおるちゃん……」 「いかん、完全に寝ちゅう」  しばらくは大人しく抱き込まれたままでいた。しかし、馨はあることに気づく。ちょうど下腹部の辺り、硬く張ったものが刺さる。馨は生唾を呑み込んだ。この棒状の物体が何であるか、わざわざ確認しなくても当然にわかる。 「……りょーまぁ……」  馨は切ない声を上げた。ついつい焦がれてしまい、唇をそっと重ねる。硬く張った遼真のそこを、パジャマ越しにすりすりと撫でた。するとますます主張が激しくなってくる。唇を触れ合わせるだけでなく、舌でちろちろと舐めてみる。遼真の口が薄く開くので、舌を突っ込んで絡めたくなる。  と、廊下をぱたぱたと小走りに走る足音がする。この部屋に向かってきている。誰かが遼真を起こしに来たのだろう。馨は大慌てで布団から這い出ようとしたが、遼真の腕がそれを許さない。結局添い寝をした状態のまま、無情にも障子戸が開かれてしまう。 「遼真、そろそろ起き――」  遼真の母だった。ばっちり目が合った。途轍もない気まずさから、馨が先に目を逸らす。しどろもどろになって弁解紛いのことを口走る。 「こっ、これは違て……そん、なんちゅうか……な、何ちゃやのうて……」  しかし母親の方は然程驚いた風でもない。 「馨ちゃん、来ちょったがかえ。遼真、まだ寝ちゅう?」 「は? はぁ、寝よります」 「ほんなら、遼真が起きたら一緒に居間に来ぃ。馨ちゃんも朝ご飯食べるろう?」 「はぁ……」 「言うたきね、早うね」  そしてすぐに、ぱたぱたと足音を立てながら台所へ戻っていった。  張り詰めていた糸が緩み、馨は深く息を吐いた。同時に、眠っていたはずの遼真がくすくすと笑い声を漏らす。 「おまっ、やっぱり起きちょったがか」 「違うよぉ。狸寝入りなんてしやせんよ」 「ほいたら、いつ起きたが?」 「母さんの足音が聞こえた時」 「ほいたらやっぱり狸寝入りやか! わしがせっかく離れようちしたのにおまんが放さんせいで変な感じになっつろうが」 「ごめんごめん。わざとじゃないんだよ。だってほら」  遼真は馨の手を取り、下腹部へ持っていった。そこはまだ硬く張り詰めている。 「馨ちゃんがいなくなってタオルケットが捲れてもうたら、ここが母さんに見えてまうと思うて……さすがに恥ずかしいし、馨ちゃんももっと気まずうなるろう? やき……」  馨は自然とそれを握っていた。心地いいくらい、手にぴったりフィットする。 「……りょーまぁ、わし……」  妙に早く目覚めてしまったのは、独りで寝たのが久しぶりだったからかもしれない。馨はうっとりと目を細め、再び唇を寄せた。 「遼真! まだ寝ちゅうがか? はよ起きぃや!」  遠くからではあったが、母親の大声が聞こえてくる。それですっかり気分は萎えてしまい、二人とも苦笑いを浮かべた。  居間へ行くと、田舎の実家へ帰ってきたぞという感じのする、和食中心の朝食ができあがっていた。食事は美味しかったのだが、遼真の母が先ほどの出来事を持ち出して、いつまでも子供みたいに仲が良くて云々と揶揄うので、馨は冷や汗を掻きっぱなしだった。  自分の家に帰ると、こちらでもまた朝食が用意されていた。家族全員食べ終えており、馨の分だけが残っていた。部屋に呼びに行ったのにいないので、どうせまた遼真のところへ行っているのだろうと思った、と母は言った。実際その通りだ。既に満腹だったはずなのに、二度目の朝食も美味しかった。  帰りは馨の母の運転で空港まで送ってもらった。見送りのゲートで、いささか寂しげな顔をする。 「元気でやりや」 「おかあもにゃあ」 「うちゃあ元気よ。あんまり遼真くんに迷惑かけたらいかんきね。遼真くんも、迷惑なら迷惑ちはっきり言うてえいきね」 「別に、迷惑なんぞかけちゃあせんし……」 「それと、ちゃんと電話寄越しや」 「わかっちゅう」 「ほなね。元気でね」  昼過ぎの便で東京に戻った。着く頃にはもう夕方であった。

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