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俺、今から浮気します【16】

  「勇輝さん...勇輝さん、おはようございます。どうですか? 起きられますか?」 耳許で優しく囁く声は、いつもの充彦の声じゃない。 けれど俺を起こしにくるなんてのは充彦以外にいるわけもなく、フワフワと水の中を漂っているような気分の中で声の方向へと手を伸ばす。 声の主はその手を軽く握ると、ゆっくりと体を支えるようにしながら起き上がらせてくれた。 「早く目覚まさないと、キスしますよ」 その言葉に、俺はいつものように唇を『ンッ』と突き出してそれをねだる。 呆れたような含み笑いと共に、唇がしっかりと塞がれた。 力に任せたような強引なキスと、微かに感じるタバコの香り。 タバコの...香り? ......充彦じゃないっ!? 俺は目の前の体を押し退け、急いで霞んだままの目を擦った。 「では、改めておはようございます。今度こそ起きました?」 「あ...あれ、瑠威? えっと...あのぉ...うん、おはよう」 キョロキョロと辺りを見回す。 俺が寝ていたのはリビングのソファーベッドの上ではなく、いつもの俺達の寝室の真っ白なベッド。 充彦と瑠威、二人がかりで散々喘がされ、もうすっかりザーメンが出なくなった辺りまではなんとなく覚えてるけれど、それ以降についてはまるっきり記憶がない。 もとい。 記憶がないのではなく、途中からはまともに意識すら無かったんだろう。 ともかく、動けなくなった俺がここに寝ているということは、二人でこのベッドまで運んでくれたということだ。 いろんな汁でドロドロだったはずの俺の体は、すっかり綺麗に清められていた。 「あぁ...瑠威、ありがとな。重かっただろ、ここまで運ぶの?」 「いえ、運んだのは充彦さんですよ。体綺麗にしたのもあの人です。『これは俺の役目だから』って、指一本触れさせてもらえませんでした」 「...ああ、そうか......とりあえずさっきキスした事は黙ってような」 「そうですね。俺、許可なくチューしたなんてバレたら、充彦さんに余裕で殴り殺されそうな気がします」 穏やかな顔で瑠威がフワリと微笑む。 生意気で横柄で俺様な『瑠威』が好きだという人には申し訳ない話なのかもしれないが、たった一日で本当にイイ顔になったと思う。 険が取れた事で、元々端整だったその顔には優しさと可愛らしさが加わり、さらに匂いたつような色気が出た。 持って生まれた資質が抜群に良かったのだとはいえ、こうして変わったきっかけは間違いなく俺や充彦だ。 瑠威という人間にとって、この変化が良かったのか悪かったのか今はわからない。 ただ、少なくともこの業界で今後も体を張って金を稼ぎたいと考えるのであれば、それは間違いなくプラスになってくるだろう。 自分がこれほど他人を変えられるという事、影響を与えてしまったという事実に、驚くと共に軽い衝撃を覚える。 「勇輝さん?」 「んあっ? あ、何?」 「まだ眠いですか? まあ...あれだけしつこいくらい充彦さんに可愛がられれば、疲れも出るし意識の一つや二つ失いますよねぇ」 「うるさいよ、お前だって片棒担いでたくせに」 「片棒なんてとんでもない。俺はただ飼い主様の言いつけをちゃ~んと守っただけですニャン」 『生意気な子猫』と呼ばれた事を実は根に持っているのか、それとも面白いネタが手に入ったとでも思ったのか、わざとらしく『ニャンニャン』なんて言いながら俺の背中で爪研ぎの真似事まで始めた。 ...コイツ、こんなに明るくて子供っぽいヤツだったんだな...本当は。 「あ、充彦さんが、もう少ししたら朝御飯できるからシャワー浴びてきたらどうかって。いくら丁寧に拭いたとはいえ、昨日はどこもかしこもザーメンまみれでしたしね」 「お前なぁ...後ろ半分の言葉余計だから。ってか、案外お喋りなんだな」 俺に言われて初めてそれに気付いたといった風に一瞬目を丸くすると、瑠威は少しだけ寂しそうに笑う。 なんだかそんな顔を見てるのが苦しくて、俺は瑠威の体をギュッと抱き締めた。 「後で...少し話聞いてもいいか?」 「...はい...」 小さい小さい声で返事をすると、瑠威はスッと離れていった。 「さ、お風呂行ってきてください。あんまり遅くなると、俺が充彦さんに怒られます。腰が抜けて立てないようなら、お姫様抱っこで連れて行きましょうか?」 わざとらしいくらいに恭しく差し出された手をペチンと叩く。 そこでふと気づいた。 「瑠威、お前のその服って...」 「ああ、自分の服よりはサイズが合うだろうからって、充彦さんが勇輝さんの服出してくれたんです。なんせ俺の服、ここ来てすぐ勇輝さんにボロボロにされちゃったし」 「あ、そうか...そうだったな。乱暴してごめんな?」 俺の一番お気に入りの、ふんわり柔らかいリネンのVネックシャツに、ダークブラウンのカーゴパンツ。 これを充彦が渡したのだろうか...俺の一番のお気に入りだとわかっていて。 「それ、すごい似合ってるよ。昨日までの格好よりもずっと似合ってる」 「俺も...そう思います」 照れたように、けれど嬉しそうに微笑む瑠威。 俺はベッドから立ち上がるとクローゼットを開け、そのシャツに合わせるのが特に好きだったターコイズのペンダントを取り出してそっと瑠威の手に握らせる。 驚いた顔を見せる瑠威に何も言わず、その肩だけをポンと叩き、シャワーを浴びに行く為に部屋を出た。 ********** 「おう、おはよ」 ザッと体を清めてから改めてリビングに入ると、そこはもう驚くほどいつも通りだった。 ソファはちゃんとソファだし、怪しげな小物入れも無ければ汚れた様子も無い。 おそらく俺をベッドに運んでから、瑠威と二人で綺麗にしたんだろう。 その充彦と瑠威は、何やら楽しそうに笑い合いながらダイニングテーブルに料理を並べている。 あ...なんだろう...胸が痛い... 穏やかで、それでいて驚くほど艶やかになった瑠威が...俺のあの大切な服を着て充彦と話している... もしかしたら...この光景を俺に見せる事が充彦の一番のお仕置きだったのかな... それとも、どこの誰ともわからない人間に散々使い古された俺なんかより、まだ若くて初々しい瑠威の方が魅力的に映ってるんだろうか。 そんなはずはないとわかっていながら、あんまりその光景が眩しくて苦しくて、なんだか目頭と鼻の奥が痛くなってきた。 「お、おいっ! どうした? まだ腰痛むのか? 気分でも悪い? ほんとマジでごめんな...やり過ぎた?」 リビングの入り口に立ち竦んだまま動けないでいる俺に気付き、充彦が顔色を変えて飛んでくる。 そのまま俺の肩を抱き、ゆっくりとソファに座らせてくれる。 「瑠威、勇輝出てきたし、とりあえずお前も風呂行ってこいよ。タオルとか下着とか全部ドアの横のカゴに入れてあるから、好きなの適当に使いな」 「あ...はい。勇輝さん、大丈夫ですか?」 「大丈夫、心配いらない。だって...俺がいる」 充彦にそう言われればそれ以上粘る必要もなく、瑠威はおとなしくリビングから出ていった。 「勇輝、大丈夫か? 水飲む? それともジュースかなんか作ろうか? 起きてすぐ風呂行ったから、貧血起こしたのかなぁ...」 俺の体を抱き締めながら、おまじないでもかけるように充彦は何度も何度も額に唇を押し当てる。 「充彦...瑠威の服......」 「あ、ごめんな...アイツがまさかあれ選ぶと思わなかったんだよぉ。適当に見繕った中にうっかり混ざっててさ。んで瑠威に好きなの選んでいいっつったら、アイツ迷わずあの服取っちゃって...」 「そう...なの......?」 「もっと高いやつもあるんだし、何もわざわざ長いこと着てるやつじゃなくても新品にすればいいのにって言ったんだけどさ、どうしてもあれがいいって。メチャクチャ必死な目で、どうしてもこの服が欲しいんだって訴えられてるうちにな、なんか俺があの服買った時の勇輝思いだしちゃって。んで、つい『そんなに気にいったなら、それにする?』って言っちゃいました、ゴメン」 そう、あの服は...俺達の初めてのデートの時に『記念に』と充彦が買ってくれた物。 充彦から俺への、初めてのプレゼント。 常連だというショップに連れて行かれ、好きな物を選べと言われた俺は...あのシャツに一目惚れした。 あの頃俺の何倍も稼いでいた充彦はシャツの値札を見て『もうちょっといいヤツもあるよ』『なんなら色違いで2、3枚買う?』なんて言ってたけれど、俺がどうしても欲しかったのは淡いアイボリーのサラサラとした手触りが優しいそのシャツ一枚だけで、断固首を横に振った。 最初のうちは俺が遠慮して安いシャツだけで我慢してると思っていたみたいだけど、本当に本当にそのシャツだけを欲しがってると気づいた充彦は、ちょっと呆れたように笑いながら言ったのだ... 『そんなに気にいったなら、それにする?』 それから俺は、洗濯にも気を遣いながらずっと大切にあのシャツを着続けた。 あれから何枚も服は買ったのに、今でもあのシャツは一番のお気に入りで特別な物だった。 「俺の事を...思い出したの?」 「そうだよ」 「てか、覚えてるの?」 「あったりまえじゃん。あんなにドキドキしてワクワクしたデートだぞ? いきなり爛れた関係から始まった俺らだけどな...いや、爛れた関係から始まったからこそ、当たり前に普通のデートするって事に俺がどれだけ緊張したか。あの日何の映画見て何食べに行って、そんでどんな話したのかまで全部覚えてるっての。勇輝と一緒にいられる幸せを改めて実感できた、ほんとに大切な思い出なんだよ...俺にとってはさ。勿論、お前がどんだけあのシャツを大事にしてくれてたかもわかってたつもりだったんだけどな...ほんとゴメン」 「そっか...嫌がらせとかお仕置きじゃなかったんだ...」 「はあっ!? なんの事?」 「......ううん、なんでもない」 俺があの服を大切にしてたのは、勿論それ自体を気にいってたこともあるけれど、あの最初のデートの時の嬉しさやドキドキを忘れたくなかったからだ。 いわゆる『普通』とはかけ離れた生活を送ってきた俺に、『普通』の幸せをくれた充彦への感謝を忘れない為だ。 そして...もしいつか充彦に好きな人ができて、俺が充彦の最後の恋人ではいられない時が来たとしても、あの思い出だけあれば生きていけると思っていたからだ。 でも充彦はあの日の事を鮮明に覚えていると言う。 あんな大切な時間を忘れるはずがないと。 俺が大切に持っていた物は、充彦もずっと大切に持ち続けてくれていた。 思い出はちゃんと共有されていた...そしてきっと、これからも共有し続ける。 ならば俺が、あのシャツにいつまでも固執する必要は無い。 「瑠威、あのシャツすごい似合ってたね。首が長くて肩幅があるし、何より浅黒い肌にあの色は映える」 「確かにな。表情が優しくなったから、ああいうナチュラルな素材や色は特に合ってるかも。あ、でもやっぱり...別のに変えてもらってこようか?」 「ううん、もういいよ、別に。それに実はさ、俺あの頃よりもちょっと筋肉付いちゃったから、もうあそこまでキレイなラインで着られないんだよね...」 「...ああ、そうか...瑠威ってちょうどあの頃の勇輝とおんなじくらいの体型なんだな...それであんなに似合ってるのか」 充彦と付き合いだした頃はまだあんなに細かったっけと、ほんの少し感慨に耽る。 あの頃は充彦への憧れの気持ちがまだまだ強くて、そんな大好きな憧れの人と二人きりの朝を迎えられるという事がどこか信じられずにいた。 俺のせいで充彦の仕事には制限がかかり、俺は俺で現場から拒絶されたり充彦と比較されたりして、二人とも精神的にちょっと疲れてた。 それでも充彦は俺と一緒にいたいと言ってくれて、俺も充彦と二人じゃなきゃ嫌だと泣いて...いつの間にか二人で朝を迎えるのが、息をするのと同じくらい当たり前になった ......ま、今日は二人じゃないけど。 世間の常識とはずいぶんと離れた所で生きてきた俺を丸ごと愛してくれる充彦という存在があったからこそ、こんな風に今幸せだと笑っていられる。 「あの服、やっぱ瑠威にあげよ...うん。さっきターコイズのペンダントもあげたし」 「ほんとにいいのか?」 「うん、いいんだ。いつか瑠威に、本当の意味での最高のパートナーが見つかりますようにってお守りに。俺はもう、ちゃんと見つけたから...」 しっかりと充彦の目を見て、その大きな体に飛び付く。 充彦は慌てる事もなく俺をギュッと抱き留めた。 「昨日は...ほんとゴメンね」 「いいって、マジで気にしてない。俺もそれなりに楽しんだし」 「それから...今日も一緒にいてくれてありがとう」 「それはお互い様。俺こそありがとう」 二人してチラリとドアの方を窺う。 まだ瑠威が戻ってくる気配はない。 「何、瑠威の事気にしてんの?」 「だって...なんか見つかったら恥ずかしいじゃん?」 「昨日あんだけの事しといて、今更ぁ!?」 「そんな事言うけどさぁ、そっちこそ気にしてない?」 「......すっげえしてる」 笑いながら、充彦の指が俺の唇をなぞる。 俺はその先をねだるようにそっと目を閉じた。

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