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FACE DOWN【7】
「経営者として、強さや冒険心てのは無かったものの、母さんは誠実で堅実な人間だった。物足りなさはあったろうけど、じいちゃんはそれで一先ずは安心したらしいよ...革新的な技術を打ち出しながら、家族のように社員を大切にするって社風だったから、穏やかで一生懸命な母さんはみんなからも慕われてたって。ただ問題は、じいちゃんの技術を受け継いでいってくれる若い職人と、新しい商品を開発する研究者をどうするかだった」
充彦の目が、じっと何かを見つめる。
それは目の前の何かではなく、もっと遠い記憶の先の何か。
穏やかで働き者だったという、若くて美しいお母さんの姿だろうか?
それとも、厳しくも温かく、絶対的なカリスマとして皆から尊敬されていたであろう偉大な祖父の姿?
どちらであろうともその姿はきっと明るく輝き、そして取り巻く人達は誰もが笑顔だったのだろう。
「ある日会社に、一人の青年が面接を受けに来た。見上げるほど大きな体と柔和な笑顔のその青年に、事務の女の子たちはあっという間に熱を上げたらしいよ。彼は大学で光工学と精密物質工学を専攻してて、元々大手光学機器メーカーに就職してた。そこをわざわざ退職して、うちの会社に来たって話したそうだ」
その青年が誰なのか...そんな事もうわかっている。
胸がドキドキする。
けれどそれを表に出さないように意識し、充彦に少しだけ背中を向けると一度だけ大きく息を吐いた。
「大手の会社を辞めてまで来るくらい、魅力的な会社だったんだね」
「いや、どうだろうな...中小企業にしてはそれなりの厚遇だったらしいけど、それでも業界最大手を辞めてまで来るほどの会社かって聞かれたら、ちょっと疑問だよな。なんせ跡継ぎでじいちゃんずーっと悩んでたくらいなんだから。先がどうなるかなんてわかんないじゃん。だから番頭さん...ああ、肩書は専務だったおっちゃんなんだけどね、その人なんかは『怪しいから止めておいた方がいい』って忠告したらしいよ」
「でもおじいさんはその人を......採用した?」
「うん。まあ前職の規模は違ったにしても、実際じいちゃんの技術に憧れて転職してきたって社員は他にもいたっていうから、そういうのに慣れっこになってたのかもね。『せめて身元をきちんと調べてからにしよう』って声にも耳も貸さないで、『まあ、やる気が無ければきつくてすぐにケツ割るよ』なんて気軽に採用決めちゃったんだって。『爽やかなイイ笑顔の好青年じゃないか』とか言っちゃってさ...ったく、人を見る目が無いんだから」
「...よほど人好きのする...素敵な笑顔だったんだね......」
こんな事を思うのはたぶん充彦には不本意だ...わかっているけれど、思わずにはいられない。
充彦は...きっとお父さん似なのだろう。
初めて会った日に見た、明るくて爽やかで屈託の無い風を装いながら、それでいて匂いたつほどにセクシーだった笑顔を思い出す。
あの笑顔と目が合った瞬間...きっと俺は恋に落ちていた。
おじいさんは勿論恋に落ちたなんて事は無いだろうけど、それでもその『笑顔』に賭けたい何かを見出だしたんだ。
「素敵な笑顔ね...ま、そんなもの俺は一回も見たこと無いけど。とにかくじいちゃんはその青年を社員として採用したわけよ。コイツがさ、大手を辞めてまで来たって言うだけあって、すっごい努力家で勉強家だったらしい。最初のうちはラインで自動作製してる大量生産のレンズの維持管理を任せてたんだけど、すぐに特注レンズの加工を教えてもらえるくらいの腕になったんだって。熱心な勉強ぶりに、じいちゃんの可愛がり方も半端じゃなかったみたい」
「おじいさんからすると、自分の技術を継いでくれる男の子が側にいることが...嬉しかったんだろうね」
「だろうな。普段は番頭さんですら簡単には立ち入らせない開発室にも連れ込んで、二人で寝る間も惜しんで新しいレンズ構造のレーザーカッターの設計にも取り組んでたらしいし」
ゆっくりと充彦の右手が上がる。
力無く伸ばされた指先は、目の前のマンションの奥に僅かに見える集会所らしき建物を指していた。
「あの辺にあったんだ...プレハブ造りの開発室。俺が小学校に上がる頃には敷地内別居みたいな事になってて、プレハブが立派に生活できる建物に変えられたけど」
ユラリと指先が震えながら動く。
それは更に奥の、マンション専用の立体駐車場を捉えていた。
「あっちが母屋。遅くまで熱心に研究をしてる二人に夜食を持っていくのが母さんの仕事でもあり...いつの間にか楽しみになってたんだって。ああでもない、こうでもないって年寄りと若者が、そっくりなポーズ取りながらウンウン唸ってる姿を見てるのは微笑ましかったって言ってたけど、その頃にはもう母さんはその青年...親父に惹かれてたんだろうな。夜食なんてのは口実で、自分が継いでやれなかった仕事をじいちゃんと楽しそうにこなしていく親父の姿を陰から見てたかっただけなんだと思う。それから二人が『結婚を前提としたお付き合い』ってやつに進展するまでに、それほどの時間はかからなかった......」
目線は今だ遠くを見つめたまま、充彦の右手が下りてくる。
俺はその手を受け止め、冷えてはいないかとキュッと握りしめた。
「ほどなく結婚し、すぐに母さんが俺を身籠ったんだけどね...そこからは次々と事態が変わっていくことになったんだ......」
握りしめた充彦の手は冷えてはいなかったけれど、小さな震えは止まらなくなっていた。
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