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FACE DOWN【8】

「俺が産まれた時分てさ、バブル時代の走りってやつだったんだよ。みんなが札束ばら蒔いて狂ってたって、あの時代ね。革新的でありながらも堅実な経営をしてたうちの会社はさ、あらゆる銀行から融資の申し出があったらしい。やれ『新社屋建て替えはどうだ』だの、『今こそ設備投資して、会社の規模を拡大するべきだ』だのね」 「それって銀行の方から言ってきたの? そんな時代だったの?」 「そう。すごい時代だよねぇ。資本金が億もいかない規模の会社にさ、支店長とかがわざわざ菓子折持って『是非お金を融資させてください』って頭下げるんだから。んで、周りの会社とかは『今が勝負だ』とばかりにガンガン金借りて、違う業種に乗り出したり第二工場作ったりってしてたらしいよ」 「ふ~ん...その言い方って事は、充彦んとこは違ったんだ?」 「......正解。じいちゃんの方針でね、本業をきちんとやる事こそが会社を長く繁栄させるんだからって、不要な借り入れは全部断ってたみたい。これまでと同じ事を同じように地道にやっていけばいいんだって、不動産投資も新規事業にも一切手を出さなかった」 なるほど、充彦が『カリスマ経営者だった』というだけの事はある。 日本中が空前の好景気に浮き足立っていた中おじいさんは先を読み、堅実に足場を固める事を選択したのだ。 その後のこの国を見れば、その判断こそが正解だったことは明白だった。 しかし、それならば...なぜ今俺達の目の前にはマンションが建っている? なぜ俺の隣に充彦がいるんだ? そう、おじいさんの判断が正しかったのなら、俺達が出会うはずなど...無かった。 「俺が小学校に上がる直前...じいちゃんが急に死んだんだ。新しい超高屈折レンズの開発に取り組んでて、ようやく完成が見えたって時だったらしい。焦るみたいに寝る時間も削って研究室にこもりっぱなしの中で...ほんとに突然」 拙いながらも、記憶の中の年表を遡っていく。 充彦が小学校に上がる前ならば、四半世紀ほど前か。 それはおそらく、有史以来と言われた好景気に僅かに翳りが見え始めた時期と重なる。 新しい商品を焦るように開発していたというのは、そんな時代の翳りを察知していたからこそなんじゃないだろうか。 「じいちゃんが死んで、古くから会社にいた人は母さんに跡を継ぐように話したらしい。母さんこそがじいちゃんの気持ちも信念も遺志も受け継いでいるんだからって。ところが、母さんは親父を社長にするべきだって、自分が跡を継ぐ事を固辞したんだ。最後の一瞬まで開発に拘ったじいちゃんの遺志は、親父が一番強く受け継いでるって」 「みんな、それで納得したの?」 「職人側の社員はね。親父の技術はじいちゃんそのもので、そこにきちんと大学で研究してきた知識の裏打ちもあるから、これからもみんなで頑張れば新しい物もきっと生み出していけるって盛り上がってたみたい。でも、経営側にいる社員からするとどうしても親父を信頼できない部分もあったし、何よりじいちゃんの血を引いてる母さんを中心に据えてこそ取引先への安心感になるって気持ちが強かったらしいよ。まあ、親父が『自分がみんなを引っ張る』って言ってごねたから母さんは頷くしかなかったって言ってた人もいたし、結局はそのゴタゴタのせいで経営側と職人側に亀裂ができて会社がまとまらなくなったらしいんだけどね」 「......それ、誰に聞いたの?」 「番頭さん。あとは、経理部長だったって人にも、俺が高校入った頃にずいぶんその時の事愚痴られた。じいちゃんもさ、ちゃんと遺言とか残してくれてりゃ良かったんだよ...『後継者は母さん』とかさ。そしたら...あんなクソ親父に何もかも好きにされずに済んだのに」 あ......れ? なんだろう...充彦の話に、どこか違和感を感じる。 まだ違和感の正体は見えない。 特にどうという、引っ掛かる部分は無いといえば無いのかもしれない。 でも、どこか気持ち悪い。 こうして感情的になってさえいなければ、充彦にだってこの話のちょっと居心地の悪い感じはわかるはずなのに。 しかし、その正体が掴めないうちに不用意な事を言うわけにはいかない。 俺は一先ずモヤモヤとした物を隠して笑った顔だけを作り、話の続きを促した。 「社長に就任してすぐ、親父は銀行への融資を依頼した。あれほどじいちゃんが嫌がってたってのにだよ? んで、その金で新しい工場作ったんだ...中国に」 「中国?」 「そう。周囲の反対も全然聞かないで、工場の中の大量生産のライン機能を中国に移すってさ。おまけにね、勤続年数の長い社員は給料が高いからって、番頭さんを含め会社の事をよく知ってる年長の社員さん達をいきなり大量解雇したらしい。その時解雇されたのって自分が社長になるのを嫌がった社員がほとんどだったらしいからさ、これはもう報復としか言えないだろ」 充彦、気付け...気付け...... 俺の中で、充彦の中に膨らんでいる憎悪の正体と原因が見え始める。 けれど充彦は話せば話すほど興奮が抑えられなくなっているのか、その目は暗く爛々とマンションを見つめていた。 「母さんはその『会社都合』の大量解雇に対処する為、毎日毎日社員に頭を下げて回り、退職金の調達やら再就職先の斡旋やらで走り回ってたんだってさ。小学校に入って間もない俺は、いつも一人ぼっちで暗くなっても帰って来ない母さんを待ってた」 「お父さんは?」 「親父か? あいつはずっと研究室にこもりっきりだったよ。んで、俺らの知らないうちに外に出て、女ばっかり漁ってやがった」 「女遊び、激しかったの?」 「激しいなんてもんじゃないっての。飲みに行った先で金ばら蒔いてホステス引っかけてるうちはまだマシで、取引先の奥さんとイイ仲になったり出張先まで愛人連れてったり......」 「それは...お母さんから聞いたの?」 「母さんは俺にそんな事一切言わないよ。とにかく人の悪口なんて言わない人だったもん。でも、その取引先の社長さんとこまで謝りに行ってたのは知ってるし」 「謝りに行った理由は、奥さんに手を出した事に間違いないの? ほんとなら、そこはお父さんが行かなきゃいけない話でしょ?」 「親父は逃げたんじゃないの? 会社の中で噂になってたの、教えてもらったんだ。おまけに、事務員の姉ちゃんにも手ぇ出した上に子供まで孕ませてさ...これはね、その姉ちゃんと父親が会社まで来て暴れてたの見たよ。母さん、一生懸命頭下げてさ...親父が責任取れないからって、金で解決したらしいわ」 「目撃はしたけど、話は聞いてないんでしょ? それにお母さん、そこまでいっても別れようともしなかったんだよね?」 「別れられなかったんだろ、会社の事考えたら。技術部門を一人で支えてた親父と実務全般取り仕切ってた母さん、二人が揃ってないと会社は回らなかったから...仕方なく別れなかったんだよ」 違う、違うよ充彦。 少しずつ、違和感の正体が見えてくる。 充彦を苦しめた悪意の根源も。 そこにはなんの証拠も無いし、俺は何一つ見てもいない。 けれどなぜか、自分の考えの至ったそれこそが真実だと確信めいた思いがあった。

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