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FACE DOWN【9】
「相変わらず親父は家族には無関心でさ、研究室にこもってるか、『出張』って名目の浮気旅行に行ってるかだったらしい。それでも俺には辛い顔を見せまいとしてたんだろうな...二人暮らしみたいな生活でも、母さんはいつだって笑ってたよ。そんな母さんを喜ばせたくて、俺は小遣いのほとんどを材料費に充てて母さんの大好きなお菓子作りに夢中になった。それが中学生の頃だ。俺は高校に入り、将来はパティシエを目指そうって決めた...2年の春先だったかな。その頃親父が家を出ていったんだ。会社の経営が大変になってた時期だってのに、『仕事の為だ』とかなんとか言って中国に行ったまま帰らなくなったんだよ。まあ、入れあげてた女が中国人だったらしいから、その女のとこにでも転がり込んだんだろう。けど母さんは必死に心配をかけまいとしてた...『大丈夫』『充彦がやりたい事の為に勉強をするくらいの蓄えはあるから気にするな』ってね。たった一人で歯を食い縛りながら会社を切り盛りしてた」
充彦が、まるで引きちぎるような力で前髪を掻き毟る。
感情が昂り過ぎたのか、俺から少しだけ顔を背けると大きな手のひらで目許を覆った。
「そんなに深刻な事になってるって知らなかったんだよ...俺にとって守りたい人は母さんだけで...他の人間なんてどうでも良くて...だから母さんが『大丈夫』っていつも通り笑ってくれてたから、本当に大丈夫だって思い込んでて......」
励ましてやりたい。
抱きしめて慰めてやりたいと思う。
けどそれは、今じゃない。
今の充彦は怒りと思い込みと『偽りの言葉』に我を失い、本当の意味で自分の過去と対峙してはいないから。
すべてを受け止め、理解できたその時こそ...傷付いた心ごと抱きしめてやろう。
「学校はこの家から遠かったし、俺の腕を見込んだ講師の人から有名なケーキ屋でのバイトを紹介してもらってた事もあって、専門学校に入ってから少しして家を出たんだ。仕送りしてもらわなくてもいいように、学校の近くに安いアパート借りて。そんなある日、俺の所に一本の電話が入った...家とはまるっきり離れた大学病院からだったよ。道端で倒れてる所を発見されて緊急入院したって電話。慌てて駆けつけたらさ、酸素マスクして、身体中わけのわかんないコードが繋がってて...脳内出血だった。意識も無くて、もうもたないって言われたんだけど、俺が手を握ったら目を開けてくれてね。『お金、ダメだった。最後の最後まで裏切られちゃった、ごめんね』って。それが母さんの最後の言葉。最初俺にはその『裏切られた』が何を意味するのかわからなかったんだ。だけどね、預金通帳だの会社の帳簿だのを整理しててわかってきた。会社の土地や建物はすべて抵当に入っててもう差し押さえられてるし、通帳は空っぽになってるし。ていうかさ、俺の知らないうちに会社が清算されてたの。じいちゃんがいっぱい取ってたはずの特許なんかもいつの間にかどっかの会社に売却されてる状態でさ......」
「で? お父さんは?」
「知らないよ。中国に行ったっきりだしな。あとは知ってるだろ? 会社の債権に関しては清算も終わってたし遺産放棄もしたから問題無かったけど、クソ親父が借りたまんまトンズラしやがったヤミ金への借金がトラブって、半殺しにされるわバイト続けられなくなるわ。結局親父は女にそそのかされて、会社が持ってた権利とかは全部そいつにあげちゃったらしいんだよね......」
また『らしい』か......
「その『女にそそのかされた』って話は誰に聞いたの? 充彦は会社についてまったく知らなかったし、お母さんも一切愚痴らしき物は言ってないんだよね?」
「あ? 経理部長やってた人だよ。俺が家出る少し前に番頭さんが再就職した会社に移ったんだけど、母さんが死んだって聞いて線香上げにきてくれたんだ。その時に、俺の学費の為に縁のあった会社に借金頼みに行ってたとか、親父はハニートラップにかかったらしくて家族も会社も見捨てたって教えてもらった」
「......そう。充彦の話は、『らしい』とか『だそうだ』ばっかりなんだね」
「......え? いや、何? お前...何言いたいの?」
「充彦が間違いない事実として正確に知ってるのは、『お母さんは何者かに裏切られて金策に失敗した』『お父さんがヤミ金に借金してた』『会社が自分の知らないうちに清算されていた』、あとは...『お父さんは中国に行ったまま帰って来なかった』ってだけなわけだ? あとはぜ~んぶ、伝聞と思い込みだよね?」
「勇輝、いい加減にしろよ。お前ほんと、何が言いたいんだ」
いくよ、充彦。
怒鳴られても殴られても、俺はこれからお前を...傷つける。
それがこの場に連れて来られた俺の役目だ。
「あのね、今から俺は充彦の記憶と気持ちを引っ掻き回します。たぶん、ボロボロにします。どんな反論しようが抵抗しようが、全部真正面から受け止めてボッコボコに論破します。俺がここまで断言できるくらい、今の話と充彦の記憶は...矛盾だらけだ。俺がその矛盾ぶっ壊して、お前を本当の過去と向き合わせる」
初めて見る、怒りを隠さない充彦の目。
あまりの迫力に、一瞬だけ怯みそうになる。
......大丈夫、絶対にわかってくれる。
後ろに下がってしまいそうになる脚をペシと叩き、その射るような視線を真正面から受け止めた。
睨み合い、お互いを牽制したまま無言が続く。
さらに雲は重く垂れ込め、湿度は高いまま一気に気温は下がっていく。
ポツリ...首筋に落ちてきた大きな水滴に背中を押されるように、俺はゆっくりと息を吸った。
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