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FACE DOWN【10】
「俺が今からする話は、あくまでも今充彦から聞いた話からの推測だ。それでも充彦だって、結局は伝聞と噂でしか聞いてないんだから、まあ...大差は無いだろ」
ポツリポツリと落ちてきた大粒の雨が肩をゆっくりと湿らせていく。
充彦が俺を見る目が冷たい。
「まず充彦のお父さんが工場の生産ラインの機能の一部を中国に移し、会社の古参社員を解雇したと言われた時代の事だ。戦後最長と言われた好景気が終わりを迎え、日本経済が急激な下降線をたどりだした時期だ。投資の対象だった土地の価格は下落し、同様に株価も大暴落した。そんな中でも日本国債の世界的な価値と信頼度が下がる事は無く、国内市場は縮小の一途だったにも関わらず、円高傾向は変わらなかった。その為、日本の高度成長経済を支えてきた『輸出産業』が長い低迷期を迎える事になった...俺の知識なんてこんなもんだけど、何か間違ってる?」
「いや、間違ってはないな。大手自動車メーカーも巨大鉄鋼会社も、事業計画の見直しと経常利益の下方修正を迫られるようになったのはその時期だ。その対策に完全国内生産だった海外向け商品については現地に生産拠点を移したり......」
自分でそれを言葉にして、充彦がピタリと動きを止める。
最初の一石は、充彦の心にちゃんと波紋を作ったらしい。
「大企業なら、それまでの社内留保分なんかで当座はしのげただろうね。でも、中小零細企業はどうだっただろう? 特に、取引先に海外企業が多く含まれているような会社だったら? 『貸し剥がし』って言葉が生まれた時代だよね。銀行が会社に『経営計画の変更・改善』や『リストラ』を求めたっておかしくない」
「何言ってんの? もしかして、それってうちの会社の事言ってる? だからぁ、じいちゃんが生きてた頃は超健全経営だった上にバブルにも乗らなかったから銀行からの借り入れなんて無いし、外から経営に口出しされるわけが......」
「まずそこからおかしいだろ。お父さんが社長になった途端に借り入れして、大リストラの上で中国に進出した? 冷静に考えてみろ。銀行は、一時の運転資金ですら貸し渋った時代だぞ。それまで基本的に取り引きが無くて、おまけにカリスマと呼ばれた経営者から代替わりしたばっかりの会社に、どこのバカがホイホイ金貸してくれるんだよ」
「そ...れは......」
「目的が投資ではなかったにしても、もうその時にはとっくに借り入れがあったんだよ。いやひょっとすると、おじいさんが知らない所での借金だったのかもしれない...開発や、海外に対しての事業計画はともかく、経理部門は社内の信頼できる腹心に任してただろうからな。ほら、たとえば...お前が『番頭さん』て呼んでる古狸とか?」
疑え。
お前が今まで聞かされてきた話のすべてを...疑って冷静になるんだ。
お前にすべての話を吹き込んだ人間は、どうせ誰もかれも経理面での実権を握ってた立場のやつばかりだっただろ?
「おじいさんの意志を継いだお父さんは、社長になって初めて会社の経営実態を知った。おじいさんに言われて経理面の勉強を始めてたってお母さんから細かく教えられたのかもしれない。おそらくそれは、これまで通りに経営をしたのでは到底返済のできない金額だったんだろう。当時の高金利での莫大な借金、それも自分が一切聞いていなかった事だったとすれば、お父さんはひどく悩んだだろう。古参社員を集めての経営会議なんてのもやったろうし、新規の取引先を探して日本中飛び回ったりもしただろうな...会社と家族を守る為、その愛しい家族に会う暇も無いくらい」
「......あいつに...家族を大切になんて思う気持ちが...あるわけ無い...俺の顔何日も見なくたって...平気だったのに......」
「ちょっと考え方変えてみろよ。しっかり思い出せ。お父さんはいつも研究室にこもって出て来なかった? じゃあ、食事はどうしてた? わざわざ外出してたのか?」
「それは...母さんが持って行ってたけど......」
「家族に愛情の欠片も持ってないって人が、何よりも愛情のこもった手料理なんて食べるか? お母さんは手の付けられてない食事をそのまま持って帰ってきてたか? お前が自分の目で見てなかっただけで、お父さんはお母さんの料理を食べながら、きっとお前の成長や毎日の事を聞いてたんだよ。寝てるお前を起こさないように、そっと顔を見に行く事だってあったかもしれない...しっかり思い出せよ!」
ひたすら俺を睨み付けていたはずの充彦の目が微かに揺れる。
きっとあっただろう...眠っている頭を撫でる温かい手の感触にうっすらと目を開けた事が。
その手の持ち主の後ろには、笑顔のお母さんが立ってはいなかったか?
お父さんに甘えられない、寂しいと言えない...そんな自分を抑える為に、寝惚けて見たその光景は、お前の記憶の中で封印されたんじゃないのか?
最初から愛されていないんだから、自分だって愛してるわけがないって思い込もうとしたんだろ?
「お父さんとお母さんは話し合って、会社を守る為に大きな決断を下した。おそらくその莫大な負債の原因を作り、お母さんを自分達の傀儡として社長の座に据えようと画策した...そう、形としてお父さんの社長就任を阻もうとした一派の...クビを切ったんだよ」
自分の中の記憶の糸を必死に手繰っているらしい充彦には、今は俺の言葉が耳に入らないようだった。
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