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FACE DOWN【12】

「お父さんとお母さんが大英断をくだした事で、おそらく何年かは経営も気持ちも安定してたと思う。勿論中国の工場の管理もあるから、お父さんが家にいられる時間は少なかっただろうけどね。それでも借入について頭を悩ませる事も減って、きっとそれまでよりは穏やかな生活を送れてたんじゃないかな」 「でも...事務員の女の子妊娠させたって、その子のお父さんが会社にまで乗り込んできて......」 「その話のどこまでが真実なのかもわからないんだろ? お前が知ってるのは『乗り込んできた』って部分だけだ。その女の子の狂言だった可能性は否定できない」 「でも! でも...母さんが土下座して...堕ろしてくれるように頼んだって......」 「なあ、充彦...お前のお母さんて、そんなにひどい女か? お前の思い込みの話で言うなら、お母さんがお父さんと離婚しなかったのは、会社とお前を守る為でしかなかったわけだよな? そしてその会社とお前を守る為だけに、お父さんを本気で愛して子供まで身籠ったって訴えてる女の子に対して『堕ろしてくれ』って平気で言った事になる。そんな事できる女だったか? もしその話が本当だったなら、お母さんは黙って身を引いたんじゃないかと俺は思うだけどな」 またしても思い当たる何かを見つけたのか、丸まったままの背中がビクリと震えた。 「お前に『お母さんが土下座して謝った』なんて話をしたのは...お母さんが亡くなってからだよな? 線香上げにきたっていう経理部長からだろ? んで、そいつが今いる会社ってのは、番頭さんとやらが移った会社だ...違う?」 「......その通りだ...会社清算する事になって、そこに拾ってもらったって......」 やっぱりそうだった。 充彦の口からポツポツと出てくる数少ない事実が、俺が考えた憶測が強ち間違いではないと教えてくれる。 そしてその事で、さらに自分の中の他の仮説がが少しずつ結び付いていった。 「リストラも進み、ようやく新体制が軌道に乗り出した頃、充彦の会社にとっては計り知れないような何らかのマイナスの事態が起きた。それは、そうだな...例えば、本来特許を持っていた充彦の会社にしか作れないはずの製品を他の会社が更に安価で販売を始めたとか、メンテナンスを任せていた会社の裏切りにも近い不手際のせいで契約が一気に打ち切られる事になったとか...そんな辺りかな。おそらく、国内での業績を大きく悪化させる事になるような、とにかく緊急事態と呼べる何かだ。お母さんは日本での市場を守る為に、また必死に走り回らなければいけない生活が始まった」 「......毎日毎日、泣きそうな顔で疲れ果てて帰ってくる母さんが可哀想で...だから、そんな母さんを少しでも笑顔にしてあげたくて......」 「お母さんの大好きなお菓子作るようになったんだろ? そしてそこから、将来はパティシエになる事を決めた。ちょうどそんな時期に、お父さんに会わなかったか? 中国に行きっぱなしになってたってお父さんが、突然日本に帰って来なかったか?」 「ああ、一回だけ帰ってきたよ...会って早々、蔑んだみたいな目で『お前は菓子職人になるのか?』って言われた」 「それこそ、お母さんとお父さんがちゃんとお互いの近況やお前の事について、連絡を取り合ってた証拠じゃない?」 「......え?」 「お母さんは、お父さんにちゃんとお前の将来の夢の話も伝えてたんだよ。で、たぶんお父さんはお前の意思を確認したくて急遽帰国したんだ。お父さんへの不信感で凝り固まってたお前には蔑んだような顔に見えたのかもしれないけど、ほんとは『跡は継いでもらえないのか』って寂しくなってただけかもしれない。お前の意思を確認して、お父さんとお母さんはまた新しい、一つの大きな決断をしたんだ」 「けつ...だん?」 「日本法人の解体だよ。お前が跡を継がないなら、負債を増やす事になってまで無理に会社を残す必要は無い。まだ社員に退職金を払ってやれるだけの余裕があるうちに日本での活動を終了して、すべての拠点を中国に移す事を考えたんだ。で、銀行の追加融資の決済を待っていられない何かの事情があって、当座の運転資金に...ヤミ金に手を出した。その判断は間違いだったと思う...お父さんの犯した、最大の失敗だ。銀行の借入に苦しんでたのに、簡単には返済のできない所から借金するなんて愚かとしか言いようがない。でもな、そこまでしても資金の調達を急がなければいけない何かがあったんだろう。ひょっとすると...すべてを移行させるつもりだった中国の工場が乗っ取りにでもあったかもしれない」 「それは、親父がハニートラップに引っ掛かったとか......」 「ハニートラップに掛かったのは、お父さんとは限らない」 「そんな......」 「お父さんは、自分が育てた若い技術者をかなり連れて行ってたはずだ。中には『腹心』て呼んでもいいくらいの人間もいただろう。その腹心がハニートラップに掛かって、会社が持ってた特許技術や、これからの開発計画なんかを全部どこかに流してたら? まあ、ジェネリックと同じだよな...自分の所で必死に開発した技術じゃない分、はるかに安く中国の会社が同じ商品を販売できる。日本でも中国でも、腹心の裏切りで八方塞がりになったんだ。それでお父さんは、一か八かでヤミ金から運転資金を借りて起死回生を計った...勿論それは失敗に終わったから、今の充彦がいるわけだ。ついでに言うと、お母さんが最後まで借金の申し込みで走り回ってたってのも間違いだと思うよ」 「どういう意味だ?」 「俺の考えてる通りなら、ヤミ金への借金はお母さんも知ってたはずだ。返せる宛の無い借金の申込みなんて、安易にしに行くとは思えない。それに、お母さんが言ったっていう、『最後に裏切られた』って言葉だよ」 「それは...どういう......」 「お母さんはたぶん、勝手に会社の特許技術を使ってた会社に使用料を請求しに行ったんだよ。そこはおそらく...元々は下請けをやってたっていう番頭さんの会社だ。その無断使用の特許技術でその会社はずいぶん儲けてただろう。それまではそれを苦々しく思いながらも目を瞑ってきた...かつて自分を可愛がってくれた人への情からだ。けれどもう甘い顔もしていられる状況じゃなくなった。きっと法外な値段を吹っ掛けたわけじゃなく、ヤミ金からの借金返済と充彦の学費にできる分だけを請求しに行ったんだろう。ひょっとすると、正式に特許権を譲渡してもいいって話をしたかもしれない。不祥事を起こした番頭さん達をその会社に再就職させてやったのは自分だ、誰よりも恩を感じてくれてるだろう...そう考えたお母さんは、きっと最後の最後で甘かったんだよ」 「......母さんが搬送された病院は...その会社の近く...だ......」 「それが『裏切られた』って事だよ。番頭さんは使用料の支払いを拒んだ。もしかすると、敢えて会社に残しておいた経理部長に、すでに権利の委譲手続きでも取らせてたのかもしれない。支払いの義務は無いとでも言ってお母さんを追い返したんだよ。そしてそれまで積み重なった疲労と最大の裏切りの中、お母さんは倒れてしまった...お前の中に埋め込まれたお父さんへの誤解を何一つ解かないままで」 耐えられなくなった充彦が、車のボンネットに体重を預けながらズルズルと座り込む。 ポツポツとだった雨は、いつの間にか俺と充彦の間に仕切りを作るほどの勢いになっていた。

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