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似た者同士【5】
「辛いんなら...そこの話は飛ばしてもいいんだぞ?」
俺の言葉に、瑠威は泣き笑いみたいな顔を作って首を横に振った。
「ここ話さなきゃ意味ないんです...今の俺にも、これからの俺の夢にも関わってるから」
ティッシュを抜いて差し出してやると、小さく頭を下げてグシグシと鼻を擦る。
何度も何度も深呼吸を繰り返す背中を、勇輝はそっと撫で続けた。
「...中学の卒業式が終わって...寮付きの組み立て工場に無事就職も決まって...彩さんの家にいられるのもあと1週間になった頃でした。家に突然電話が入ったんです。パートに行ってた彩さんの代わりに俺がその電話に出ると、それは光ちゃんが通っていた保育園からでした...」
ポロポロと溢れだした涙を拭う事もせず、瑠威はただひたすらにグラスの中身を煽る。
代わりに勇輝がその涙をシャツの袖でそっと押さえた。
「光ちゃんがね、病院に緊急搬送されたって。彩さんに連絡して、急いで二人で病院に行きました。そこには真っ青な顔で泣きながら保育園の先生達が立っていて...」
「何かの...事故?」
「うん、事故って言えば...事故ですね。アナフィラキシーショックって言葉、知ってますか?」
「アナフィラキシーショック...?」
「急激なアレルギー反応が引き起こす蕁麻疹とかだよな。重症化すると気管の粘膜にまで水疱できたりして、呼吸不全とか心不全起こしたりするやつ?」
パティシエとして扱う食材の多くには、法律で『アレルゲン表示』が義務付けられている。
それは、まだその道から下りる前の必修講義で習った内容だった。
「そうです。光ちゃんにはかなり強い牛乳のアレルギーがありました。給食もおやつもみんなと同じ物を食べる事は難しいからって、保育園なのに毎日お弁当を持っていってたくらいだったんです。その日は卒園生の為のお楽しみ会をやってたらしくて...おやつにはね、ホットケーキが出ました。光ちゃんにはフルーツが一杯乗った物、他の子には生クリームでデコレーションしてある物。他にもアレルギーを申告してる子はいたから、ちゃんとそれぞれ一人一人に合わせたホットケーキが出してあったんです。卵抜きだったり、米粉で作ってあったりね。そんな中で光ちゃんは...うーん、自分のだけが仲間外れだと思ったのかな...食べた事の無い『クリーム』ってのが堪らなく魅力的だったのかもしれない...ほんの一瞬ね、みんなの視線が逸れた瞬間に、隣の子のクリームを舐めちゃったんですって」
「...それで、大丈夫だったのか?」
瑠威は答えなかった。
俺達も、もう答えはわかっていた。
栄養学を勉強して、アレルギーを持ってる子供でも安心して来る事のできるカフェを...瑠威の夢の起源はそこにあったのだ。
「葬儀はね、保育園のお友達とか先生とかいっぱい来てくれて、すごく賑やかでしたよ。彩さんもその間は本当に気丈に振る舞ってました。だけど、駆け落ち同然で実家を飛び出していたっていう彩さんには、他に身寄りと呼べる人はいなくてね。俺と彩さんの二人だけで遺骨は拾いました。びっくりするくらいちっちゃくなるんですよね...小さい小さい真っ白な箱を抱えた彩さんは命より大切な物を失った事で...壊れちゃいました。あんなに明るくて優しくて頑張り屋さんだったのに...」
瑠威はズボンのポケットに入れていた財布を取り出した。
一体何年使っているのだろう...それはまるで野暮ったい高校生が持つような、マジックテープ式の二つ折りの物。
バリバリとテープを剥がし、中から小さなお守りを出す。
「この中に、形見として光ちゃんの髪の毛が入れてあるんです。子供の戯れ言かもしれないけど...彩さんも本気にはしてくれなかったけど...俺ね、あの頃は本当に光ちゃんのお父さんになってもいいって考えてたんですよ」
「...その人の事が好きだったんだ?」
「...まだ好きって気持ちがどういう物かもわかってなかったんですけどね、考えたらあれが初恋だったのかもしれません」
「で、その人は?」
「......消えちゃいました、俺の前から。葬儀が終わって、すっかり感情が消えたみたいになった彩さんが心配で、その日の夜は同じ部屋に寝たんです。自殺とか考えちゃうんじゃないかって心配になっちゃって。その日の夜中でした。なんか『おかしいな』って急に目が覚めて、気づいたら俺の服が全部脱がされてたんです。隣で寝てたはずの彩さんも何にも着ないままで俺に縋りついてきて...目がまともじゃないのはわかってたんだけど、俺カーッと逆上せちゃったんです。覆い被さってくる彩さんを拒むどころか抱き締めちゃって...」
「それが...初体験?」
「そう。何がなんだかわからなくて、全部彩さんのなすがまま。キスもさせてもらえないし、ただ無理矢理勃起させられて、勝手に上に跨がられて腰振られて。それでもあんまり気持ちよくて瞬殺ですよ、瞬殺。ほんと情けないったら...。んでね、何が情けないって...彩さん、最後まで一回も俺の名前呼んでくれなかった。ずっと別れた旦那さんの名前呼んでたんです」
必死に笑おうとしながら涙が止まらない瑠威は、手の中のお守りを強く握りしめていた。
初恋と初体験が悲しい思い出とセットになっている瑠威は、セックス自体を悦び、楽しめた事はあるんだろうか。
いや、無いんだろう...だからコイツはセックスでどうすれば快感を得られるのかすら知らなかったんだ。
辛い思いを抱えたまま、気持ちよくもなんともないただの『行為』を繰り返してきた瑠威の心の傷の深さはどれほどのものなんだろう。
俺も立ち上がり、勇輝とは反対側から瑠威を抱き締めてみる。
「次の日の朝にはもう、部屋の中には誰もいませんでした。机の上には『最後の思い出をありがとう』ってメモと、『代わりに使ってください』って光ちゃん名義の預金通帳と印鑑が置いてありました」
「そうか...で、彩さんとはその後は?」
「ずいぶん経ってから、水死体で発見されたって聞きました。人伝に聞いただけだし、確認したわけじゃないんですけどね」
「......辛かったな」
「そうですね。自分てほんとにガキで、大切な物も人も何にも守れないんだって現実を突き付けられたのが一番きつかったかもしれません」
お守りを大切そうに財布に戻し、それをそっと頬に当てる瑠威。
苦しい事があるたびに、こうして必死に耐えてきたのだろうか。
流れそうになる涙を堪えてきたのだろうか。
そして寂しさや辛さに耐えながら、いつか自分の夢を叶えようと歯を食いしばって頑張ってきたんだろう。
「へへっ、湿っぽい話しちゃってすいません」
「いや、俺達が聞かせろっつったんだし。てかさ、お前実はまだ不幸背負ってんじゃないの?」
「さぁ...どれの事言ってるんだろう?不幸って言えば不幸かもしれませんけど。なんでですか?」
「なんも無かったらさ、お前住み込みの工場勤務だっけ? とりあえず決まった仕事頑張りながら、コツコツ金貯めて定時制とか通信とか通ってそうだもん」
「あ...正解です。俺も元々そのつもりでした。でも工場で一方的にパートの女の子に惚れられて、それを断ったのをきっかけに遊び半分で襲われちゃって...その子がパートのボス格だったおばちゃんの娘だったんで、いじめと逆レイプを繰り返されるようになったんです。で、結局そのまま退職に追い込まれました」
「お前、基本襲われ体質か?」
「それ、なんて体質ですか! まあ確かに、今でもビデオでは襲われてばっかりですもんね...俺、合意の上でのセックス、仕事以外でしたことないし」
「うわあ、それは最大の不幸だわ」
ようやく瑠威が無理矢理でない笑顔を浮かべた。
俺も勇輝も、それに笑顔を返す。
「よし、じゃあそんな不幸まみれの瑠威くんに、これから少し明るい未来の話をしようか...」
瑠威の頭を解放して、勇輝が椅子に戻った。
俺もそれに倣い、ついでにマガジンラックに放り込んだままになっていたパンフレットを手に取る。
なんの話が始まるのかと背筋を伸ばす瑠威のグラスにウイスキーを継ぎ足すと、勇輝は氷が溶けてほとんど水になった自分のグラスの中身を一気に飲み干した。
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