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鬼の霍乱【2】

急いでタクシーでマンションへと戻ると、エントランス前から上を見上げた。 自分の部屋の辺りを見てみれば、どうやら電気は点いているように見える。 念のためもう一度電話を鳴らしてみたが、やはりそれが繋がる事はなかった。 オートロックを解除すると、慌ててエレベーターに乗り込む。 そんな事で何が変わるわけでもないとわかっているのに、何故か俺は必死で目的階のボタンを連打していた。 嫌な感じがする...この間とはどこか違う、胸がザワザワとする感じ。 扉が開いた瞬間には、弾かれるように表へと飛び出した。 それほどの距離などないはずの廊下がいやに長い。 一番奥のドアまで駆け寄ると、震える右手を左手で支えながら鍵を差し込む。 ちゃんとシリンダーは回った。 鍵はかけてあった。 その事にひとまず安心しながらドアを開けると、中から何やら焦げたような匂いがする。 靴を整える事も忘れ、ぶち破りそうな勢いでリビングの扉を開けた。 充彦は...いない。 キッチンを見ると、何か煮物を作ってたんだろうか。 置かれたままの鍋からはモワリと煙が上がっていた。 慌てて、着きっぱなしになっていたコンロの火を消す。 ......これ、もし俺が帰るのが遅れてたらどうなってたんだ... 考えるだけでゾッとする。 『自分達の事はいいから、早く帰った方がいい』と言ってくれたアリちゃんに心から感謝した。 しかし、普段から用心深く、料理中はまず鍋のそばから離れる事など無いはずの充彦はどこにいる? 火を消し忘れたままで、部屋の電気も点けっぱなしで部屋を出ていくなんて、絶対にあり得ない。 「充彦、どこ?」 声はかけてみるものの、当然のように返事はなかった。 風呂やトイレも念のために覗いてみたが、そこにも気配すら無い。 ふと、滅多に使うこともなく、普段は倉庫のような使い方をしている部屋から薄く光が漏れている事に気づいた。 恐る恐る、その部屋のドアを開く。 ......と、そこに充彦は倒れていた...真っ赤な顔をして。 「充彦っ!」 その体へと駆け寄り、そっと抱き起こす。 熱い...顔も体も、すべてが沸騰しているんじゃないかというほどに熱い。 「充彦、大丈夫? 俺だよ、わかる? 聞こえる?」 俺の呼び掛けに、充彦はなんの反応も示さなかった。 ただひたすら苦しそうに、熱い息を吐き出している。 どうしよう...当然歩けるわけもないので、まずはその細い体を横抱きにしてゆっくりと寝室へと連れていく。 ベッドに降ろし、首筋に冷却シートを貼ってやった。 これからどうしたもんだろう。 『熱がすごいんですが』なんて理由で、いい歳した大人が救急車を呼んでもいいんだろうか? せめて、歩けなくてもいいから意識だけでもあれば、タクシーを呼んで俺がおぶってでも救急病院に連れていく事もできるのに... 普段から二人とも体だけは丈夫で、もう何年も病院なんてお世話になっていないから、一体何から手を付けるのが正解なのか全然わからない。 俺自身、少しパニックを起こしてるのかもしれない。 その時、充彦がベッドの上で少しだけ身動いだ。 「...ゆう...き?」 「充彦! 大丈夫? いや、大丈夫なわけないよな、ごめん。とりあえず病院行こう、な?」 「いいよ...こんなん寝てりゃ...治る...あ、航生と...アリちゃん...は?」 「二人で楽しそうに飯食いに行った。んもう、今はそんなのどうでもいいから...」 「ごめんなぁ...俺...飯の準備も...なんもできてない...」 「いいから...いいからちょっと黙れ!」 タクシーを呼ぼうと電話を手にした俺に、充彦が小さく首を振った。 「ほんと...大丈夫...寝てたら...治る...」 そのまま再び瞼がゆっくりと下りてくる。 充彦は苦しそうにしながらも、あっという間に小さな寝息をたて始めた。 「寝てりゃ治るとかって問題じゃ...ないよな...」 みるみるうちに粘着力と冷却力を無くしたシートを取り換えながら、改めてどうしたらいいのかを考える。 本人は、どうしても病院には行きたくないらしい。 でも、俺はちゃんと診察してもらいたい。 ただ、強引に夜間診療所へ連れて行ったところで、すぐには診てもらえない可能性があることも知っている。 座っている事も儘ならない今の充彦には、いつまでそうしていれば良いのかすらわからない待ち合い室にいる時間も酷かもしれない。 普段病院にお世話になることもない俺達にかかりつけの医者なんてものがいるわけもなく、いきなり見ず知らずの病院に往診を頼む事はできないだろう。 かかりつけ......か... 俺はスマホのアドレス帳を開く。 たった一人の心当たり...何度も携帯電話を換え、そのたびに色んな名前を消したり加えたりまた消したりしたけれど、その名前だけは一度も消さなかった。 消せなかった。 俺の...大切な人。 あの人は、何年も連絡を取らなかった不義理を許してくれるだろうか? チラリと横たわる充彦を見る。 なんとか今は眠れているらしいが、かといって熱が下がっているようには見えない。 往診を頼めるのはやはりこの人しかいない...俺は罵倒されるのを覚悟の上で通話ボタンをタップした。 そしてそれは、たった2度のコールであっさりと繋がる。 「ご無沙汰してます。あの...勇輝です...遅くにいきなりすいません...」 驚いたと返されたその声は、最後に会った時とちっとも変わっていなかった。

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