95 / 420
鬼の霍乱【3】
いてもたってもいられずエントランスへと下りると、ただひたすら左右をキョロキョロする。
電話をして10分ほどしか経っていない。
まだ到着するわけないとわかっていながら、焦りや苛立ちでつい何度も時計を見てしまう。
着替えてからすぐにタクシーがつかまって真っ直ぐ来れたとしても、おそらくは15分以上かかるだろう。
さすがに充彦が心配になり、一旦上に戻ろうと中に入りかけたところで、突然爆音が響いた。
驚いて振り返れば、そこには一台のド派手なスポーツカーが滑り込んでくる。
ガルウィングのドアがゆっくりと開いた。
「お久しぶり。それで? 車はどこに停めたらいいのかしら?」
現れた懐かしい顔。
表情も雰囲気も、何も変わっていない。
「ほら、急いでるんでしょ? わざわざ愛車飛ばして来てあげたんだから早くしなさい!」
感慨に耽りそうになってしまった俺に遠慮なく飛ばされる喝も懐かしい。
「あ、ここ停めてください。ここ、ビジター用のフリーパーキングなんで」
大きな車体も、バカみたいに低い車高も一切苦にする様子はなく、見事なテクニックでスポーツカーはピタリと規定のスペースに収まった。
「こっちです」
先導する俺の後ろから、カツカツとヒールの音が聞こえる。
相変わらず華やかな人だ...エレベーターのドアを開け、続いてくれるのをじっと待った。
今は化粧こそしていないけれど、香水だけはうっすらと付けているらしい。
小さな箱の中には、すぐによく知った甘い香りが充満した。
「あの...俺...」
二人きりの沈黙にいたたまれなくなり、口を開く。
「昔話は後よ。今は患者が先でしょ。それで? 熱ってどれくらいだったの? そもそも、どんな状況?」
仕事に行く前から、なんとなく熱はあったような気がしたこと。
撮影が終わって電話をしたけれど、その時にはもう繋がらなかったこと。
急いで帰ってきたら、部屋で真っ赤な顔をして倒れていたこと。
ゆっくりと順を追って説明する俺の言葉を聞きながら、先生は持ってきたドクターバッグならぬエルメスのバーキンの中を確認し頷く。
目的の階に到着し部屋へと案内すると、俺が戻ってきた時と同じようにポンポンと雑にハイヒールを脱ぎ捨てた。
ずかずかと大股で勝手に廊下を抜けていくと、リビングの入り口でキョロキョロとしている。
ああ...明るい所でじっくり見れば、やっぱり少し年を取ったかもしれない。
美しい顔はそのままだけど、初めて会った10年ほど前には...あれほど目尻の皺は気にならなかった。
「ちょっとぉ、いつまでも人の顔に見とれてる場合じゃないでしょ。緊急事態だと思ってお化粧もしないで出てきたんだからあんまりジロジロ見ないでちょうだい。それで、患者は?」
化粧無い方がいいんだけどな...素顔はこんなにハンサムなのに。
そんな事を考えながらも、俺はお姉さんなオジサン先生を充彦が眠る寝室へと案内した。
**********
「まったくぅ...救急車呼んでも間違いじゃなかったレベルだわよ」
充彦の腕に針を刺し、持ってきた点滴のスピードを調整する先生からはきつい言葉が次々と投げつけられた。
それ聞かされ、もし先生に連絡がついてなかったらと考えただけで怖くなる。
救急車を呼んでもおかしくないほどの状況だったのに、あれこれ考えて病院に連れていくことに二の足を踏んでしまった。
いくら本人が嫌がった事とは言えだ。
今頃さらに容態は悪化していたかもしれない。
「まあ実際問題、アタシに連絡してきたのは正解だったわね。救急車呼ぶよりもアタシがここに直接来る方が、処置までの時間はうんと短くて済んでるわ。ここ最近は夜遊びもしないで家で大人しくしてたアタシに感謝しなさい」
先生は安心させようとでも思ったのか、俺に向かってニッと人の悪い笑みを向けてきた。
俺も辛うじて口許を笑った形にしてみせる。
「そんな顔しなくても、もう大丈夫よ。レントゲンまで撮ってないから絶対とは言えないけど、おそらく肺炎は起こしてないと思うわ。ただ、気管支の炎症はかなりひどそうね。一応、炎症を抑える薬と気管を拡張する薬を点滴に混ぜてるから、これで一晩様子をみてちょうだい。たぶん熱は下がるだろうし呼吸も楽になるはずだから、ちゃんと眠れると思うわ。明日にでも改めてちゃんと病院行きなさいね」
「本当に...本当にありがとうございました。俺、こんな時どうしたらいいかわからなくて...」
「んもう、水くさいわね。気にしないの、アタシと勇輝の仲なんだから。さて、点滴が終わるまで少し時間もかかることだし、コーヒーか何か淹れてもらおうかしら」
ウィンクしてくる先生に...いや、直人さんに頷くと、俺達は静かに寝室のドアを閉めリビングへと戻った。
ともだちにシェアしよう!