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鬼の霍乱【4】
「それにしても、ずいぶんといい部屋に住んでるわねぇ」
「充彦の...あ、えっと...今熱出してるアイツのやりたい事の為に、ちょっと無理して探したんです。俺もアイツもそれなりにはギャラをもらえるようになりましたから、今は何とかやれてます」
ソファに腰を下ろし、まるで吟味するようにリビングを見回す直人さんの前に、そっとコーヒーのカップを置く。
「少し濃いめをブラックですよね? 豆は深煎りのコロンビアにしました。確か酸味は少ない方がお好きだったと...」
「あら、まだアタシの好みを覚えてくれてるの?」
「......そりゃあ、忘れないですよ。短い期間とはいえ、毎朝のコーヒーの準備は俺がやってたんですもん。それに直人さんは...やっぱり特別な人だから」
自分の分のコーヒーをマグカップに入れ、直人さんの近くに座った。
「あら、その特別な人に、こんな長い間音信不通とか、ずいぶんといい度胸してるじゃない」
「それは本当に...すいません......」
痛い所を突かれた。
オーナーからユグドラシルを閉めると言われ、当時の知り合いとは極力接触を避けてきた。
別に売り専だった過去から逃げたかったとかそんな話ではなく、社会的地位の高い俺の大切な常連客に迷惑をかけたくなかったから。
それは、単なる客ではなかった直人さんにしても例外ではない。
店の中心スタッフだった俺を警察がマークしていた事はわかっていた。
だからこそ、助けを求める事も会いに行くことも避けざるを得なかったのだ。
俺との繋がりを探られる事は、直人さんの築いてきた社会的権威を傷つけることになりかねない。
もっとも、今となっては不義理をしてしまった事の言い訳にしかならないけれど。
「ふふっ、いいのよ。アタシ、別に怒っちゃないんだから。勇輝が消えた理由だってちゃんとわかってるつもりだし」
「...すいません」
「謝らない、謝らない。アタシの事を覚えててくれただけで十分嬉しいんだから。それにね、ビデオも雑誌も買っちゃうくらい、アタシ勇輝のファンなのよ?」
「誰を忘れても...直人さんだけは...絶対に忘れたりしません」
昼は病院の若き院長、夜になれば怪しげなドラァグクイーン。
行くあても無かった俺に居場所をくれた大恩人であり...そして、セックスの快感を教えてくれた人。
「俺は、直人さんに拾ってもらったおかげで...今こうして生きてます」
「アタシね、本当はちょっと後悔してた。どれほど大人びていても、どれほど色気があったにしても、まだ15だったアナタをアタシの性の対象にしてしまった事。まだ若いアナタに対して本気になるのも責任を負うのも怖くて、ユグドラシルに送ってしまった事。そして何より...アナタを手放してしまったっていう事自体をね」
驚いて直人さんを見つめる。
俺を見つめ返してくる直人さんは、やっぱり昔より少し皺が深くなっていた。
「俺、最初にユグドラシルの話を聞いた時...嫌がりましたよ? 直人さんの傍にいたいって」
「そうね。その真っ直ぐにアタシを信じて、アタシに着いてきたいって言う勇輝が怖かったの。ほらアタシ、生活も性格もグチャグチャだったじゃない?」
「そういえば、ユグドラシルのオーナーも恋人の一人でしたね」
「そうよ。自分が色恋教えた男の子を自分の恋人に売り払うとか... まるで女衒じゃないの、ねぇ?」
「売り払ったなんて言わないでください。直人さんは俺に次の居場所を見つけてくれただけじゃないですか。それも、自分の一番信頼してる人の元で、安心して暮らせる場所を。直人さんからはセックスだけじゃなく、俺にまだ足りなかった常識だとかマナーだとかたくさん教えてもらいました。とても大切にしてくれてたの、誰よりも俺が知ってます。ユグドラシルで働くようになって、たくさん指名貰えるようになって...色んな人に可愛がっていただきました。そんな時間があるからこそ...今の俺なんです」
直人さんは穏やかな顔で目を細める。
「幸せそうね」
「...はい、すごく。男優って仕事は、世間ではなかなか認めてもらえる物じゃない。でもたぶん、俺には向いてたんだと思います。お金もいただけて、相手の女の子を気持ちよくしてあげて、その映像を見てくれた人も喜ばせてあげられる。スタッフさんとか変な人は多いけどその分すごく面白いし」
「んもう...それだけじゃ無いでしょ?」
「あ、そうか...俺、直人さんの事が本当に大好きでしたけど、それは恋じゃなかったって事もわかりました」
「えーっ!? 何よ、それ」
俺は一度だけチラリと寝室のドアの方を窺う。
「充彦に会って、付き合うようになって...これこそが恋で、これこそが愛なんだなぁってわかったんです。充彦は俺のすべてを受け入れてくれて、だけど過去には拘らない。『今』の俺がそばにいるだけでいいって言ってくれます。で、いつまでも俺の一番近くにいたいって。今まで俺にそんな事言ってくれた人はいなかったから。みんな俺を大切にはしてくれたけど、一番そばにずっといたいなんて誰も言わなかった...みんな俺よりも大切な誰かや何かを持ってて...」
不意に直人さんの腕が伸びてきたと思った途端、強く抱き締められた。
久々に感じたその力強さは、それでもやはり俺が一番求めている物とは違う。
その事が嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
「ごめんね、アナタを一番大切にしてあげられなくて...」
「...ううん。直人さんが俺を一番にしてくれなかったからこそ、俺は充彦に出会えたんです。あの時、直人さんが俺の手を振り払ったのは間違いじゃなかった」
「......勇輝は何年経っても...ほんとにイイ子...」
ゆっくりと直人さんの体が離れていく。
見上げたその顔は、まるでお兄さんか...いや、どこか父親のように見えた。
「コーヒー、ちょっと冷めちゃいましたね。淹れ直してきましょうか?」
「いいわよ、別に。そうだ、イイ子過ぎる勇輝にアドバイスしてあげる。これがアタシが勇輝に教えてあげられる最後の事よ。この話が終わったら、アタシ達はもうただの知り合い。ただの昔馴染み、わかった? もし彼に何か訊かれても、そう答えるのよ」
そう言うと、直人さんはソファの自分の隣をポンポンと叩く。
俺は手の中のマグカップをテーブルに置くと、素直にそれに従った。
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