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大切な今、大切な過去【3】

フレンチが有名だって聞いてたから、てっきり中は白いクロスが掛けられたテーブルに品の良いシャンデリアなんかが煌めくような空間なのかと思ってた。 でもいざ店内に入ってみると、想像とは全然違っていて...... 黒い漆塗りに螺鈿の細工が施されたテーブルが並び、そのテーブルの脇にはシェードが和紙で作られたランプが置かれている。 和モダンというか、ほぼ和風? 壁際に置かれた花器は...赤い火襷の紋に榎肌の表面。 釉薬を使ってないようだから、備前焼だろうか。 平焼きのその器には、黒い空間によく似合う南天が一枝生けてあった。 自分の感覚のすべてが正しいなんて思わないけど、それにしてもこの造りはほんとにセンスいい。 「匠ぃ、ここってフレンチレストランじゃないの?」 「おう、一応な。でも、お客さんの好みでフレンチと懐石を選んでもらえるようになってんだ、うち。ちゃんと腕自慢の板長も中にいるよ。明日はお前らにも懐石食ってもらうから」 なるほど。 年齢性別を問わず楽しんでもらおうというのがこのホテルのモットーだそうだ。 ありとあらゆる色や柄の浴衣を取り揃えているのは、若い女性客の為。 喫茶コーナーで黒木くんがパソコンを使ってたという事はこの建物にはWi-Fiが完備されてるという事で、それはおそらく男性客やビジネスから完全に離れるわけにはいかない身分の人の為。 そう言えば大浴場には手摺も付いていたし、わざわざ床には滑りにくい加工が施されていた。 これは高齢者にも安心して温泉を楽しんで貰おうという配慮からだそうだ。 何から何まで、『お客様をもてなす』という気持ちに包まれた宿。 その最たる物が、このレストランなのかもしれない。 和でも洋でも好きな方を選べるようになっていて、そしてそのどちらも超一級品だとすれば、この宿のコンセプト含めてリピーターが増えるのは当たり前だろう。 わざわざ大きな宣伝なんて打たなくても、無理矢理ツアーの団体客なんて入れて料金を下げなくても、きっと部屋は順調に埋まる。 勿論そこまでお客さんの支持を集めるまでには並大抵ではない努力と苦労があったに違いない。 そしてこの、人気が出るのも当然だってホテルを作り上げた若きやり手社長から『恩人』なんて呼ばれる充彦って...もしかして、すごい人なのか? 「あ、みんなご苦労さん。もう今日はいいから上がって。この人らは俺の個人的な客だから、あとは俺がやるし。早番の南と関本は、明日の仕込みもあるんだから遅刻しないようにな。おやすみ」 店内をバタバタと動き回りながら急いで片付けていた若い男の子達に社長さんが声をかける。 でも...と少し躊躇うような素振りの彼らに、厨房からは別の声が響いた。 「みんな、気にしなくて大丈夫よ。ここからは私も中に入るし、お父さんも残るから。今日はこっちでご飯食べられないし、寮の方に夕食用意してきてるから、帰って少しでもゆっくりして。遅くまでありがとう。明日もよろしくね」 穏やかで優しい、聞いた事のある声。 ひょっこりと顔を出したのは、作務衣ではなく白いコックコートに身を包んだ...社長の奥さん? 「へ? 奥さん、厨房まで手伝ってんの!?」 俺達みんなが感じたであろう疑問を充彦が素直に口に出してくれる。 奥さんは少し恥ずかしそうに笑いながら、改めて俺達に頭を下げた。 「このレストランの副料理長兼、メインパティシエをしております、高梨雪乃と申します。昼間は大したお手伝いもできず、大変失礼いたしました」 「パティ...シエ......?」 俺達を案内してくれていた人が、この料理が評判のホテルで、これからは自分も目指す事になる『パティシエ』をしている...充彦の笑顔が、ほんの少しだけ複雑そうに歪んだ。 「こいつの作るデザート、結構評判いいんだよ。まあ、食べてもらえばわかると思うけど。とりあえずみんなそこ座って。まずはオードブルとワイン持ってくるから、先に乾杯しよう」 充彦の笑顔の異変に気づかない社長...匠さんは、ご機嫌な様子で厨房へと戻っていく。 俺は並んで座ったテーブルの下で、ギュッと充彦の手を握った。 「充彦の10年は...確かにちょっと遠回りだったけど、でも無駄じゃないからね」 「勇輝......?」 「社長と会った。俺と会った。航生にも慎吾にも会ったし、アリちゃんや中村さんにも会った。この10年は充彦にとって...必要な回り道だったんだよ。夢の為にひたすら直進するだけが正解じゃない。そうでしょ?」 繋いだ手が、強く握り返される。 チラリとその横顔を窺えば、充彦はいつもと変わらない穏やかな笑顔にちゃんと戻っていた。 「わかってる、うん、わかってんだ。たださ、俺とそんなに変わらない歳でああやってバリバリ仕事してる姿がちょっと眩しく感じただけ。一応才能あるって言われてた俺が、ドロップアウトしないで真っ直ぐ走り続けてたら同じくらい眩しくなれたのかなって思ったら、少し情けなくなった」 「わかってないなぁ...失敗も挫折もしないまんま、なんとなく天賦の才ってやつだけで進んでいって、今の充彦の味が出せたと思う? 食べた人を笑顔にできるようなお菓子が作れたと思う?」 「......んにゃ、どう考えても無理だな。俺の味は、美味しそうに食いながらも的確にアドバイスくれる勇輝がいてこそのもんだ。勇輝に会わなきゃ俺の味は出せなかった」 「俺に会うためには?」 「そりゃあもう、必要な回り道だったな。菓子作りの道しか知らなかったら、当然勇輝には会ってない。うん、必要な遠回りだ...うん、そうだよな。悪い...これは普段から勇輝の不安を取り除いてやる為にいつもしてる話なのに」 俺は真っ直ぐに前を向いた充彦の方に少しだけ体を寄せ、その顔だけを俺の方に向くように両手で頬を包む。 「大丈夫だから。ここからはね、遠回り分の時間を一気に取り戻せるように俺が目一杯支える。充彦がダッシュで真っ直ぐに走れるように、全力で支えるからね。安心して夢だけ追ってくれたらいいよ」 そのままそっと唇を合わせる。 ほんの少し触れるだけ。 本当に掠めただけ。 それでもその一瞬で、俺はますます充彦が好きになる。 大切な人がいるって幸せだって改めて実感する。 充彦はキスを深くすることもなく、ただ満足そうに俺の頭をポンポンて叩いた。

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