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大切な今、大切な過去【5】

いきなり動きの固まってしまった俺に、匠さんが何かあったのかと慌てたように駆け寄ってきた。 隣の充彦も、珍しく焦った顔で俺の肩にトンと触れる。 「勇輝、どうしたっ!?」 「勇輝くん! ごめん、俺大丈夫だと思い込んでたんだけど、もしかして何かアレルギーでもある!?」 決してそんな大袈裟な話では無かったのに、大の大人の余りの慌てぶりにこちらまでがひどく焦る。 違うのだと必死に頭を横に振り、改めて手の中のカップに鼻を近づけた。 「すいません、驚かせちゃって。ただ...あ、あの...なんて言うのかな...これってプロの方に対してものすごく失礼な話なのかもしれないんですけど......」 「口に合わなかった?」 「ち、違います! 本当に、本当に美味しいんです。香りもすごく良くて...あのですね、充彦が料理のベースに使ってるコンソメの味とあんまり似てるんで、ちょっとビックリしちゃって」 俺の言葉にあからさまにホッとしたような顔をしたのは充彦だけで、匠さんはと言えば俺と交代でカチーンと表情が固まってしまった。 しかしそれもほんの一瞬で、今度は元々小さな目を更に細くして笑顔を浮かべる。 「何、それって充彦の味と似てる?」 「......はい、俺はそう思いました。勿論充彦の物より、このスープの方がずっと洗練されててスッキリしてるんですけど。これって、ブイヨン作る時にスネ肉だけじゃなくてスジも少し入ってますよね? その強い肉の風味と、あとは...香りかな? 松茸の独特な香りに負けないくらい爽やかな香りが広がるんです。ローリエだけじゃなく、ブーケガルニ使ってるのかなって。他の店の物よりもセロリの葉っぱの分量が少し多めで、充彦の使うブーケガルニって独特だなぁって前から思ってて......」 「おいおい、充彦。お前の嫁さんは一体何者だ? つか、お前...ちゃんとコンソメ作ってんだな」 まるで幼子を『よくできました』とでも褒めるように俺の頭をポンポンと叩くと、匠さんは嬉しそうに充彦を見つめた。 俺の言葉のせいか、それとも匠さんの視線がこそばゆいのか、充彦の顔は乾杯の前だというのに微かに赤みを帯びる。 「だからぁ、コイツは最高で最強っつっただろ。ほんとにすごいんだって...だからさ、昔は色々悩んだもん。こんなに何でもできて、こんなに頭のイイ男を俺のそばに置いてていいのか?とかな。俺じゃどうしたって釣り合わないんじゃないのか...なんてな。ま、結局俺が惚れ過ぎてるから、悩もうが落ち込もうが手離すなんて事ができるわけはなかったんだけどね」 今度は俺が赤くなる番。 航生も慎吾も山口さんも黒木くんもいるってのに、サラッと『惚れ過ぎて』なんて言われると恥ずかしくて仕方ない。 嫁だの奥さんだの惚れ過ぎだの...今日の充彦はいつにも増して意地悪だ...俺からしたら。 充彦は俺を照れ殺したいんだろうか? こうやって堂々とのろけられるのは、カメラの前でチンコ晒すより恥ずかしいって改めて知った。 「勇輝、俺のコンソメとこのスープが似てるのは当たり前なんだよ。俺に作り方教えてくれたの、匠だから。元々簡単な料理なら作れたけど、俺はあくまでもスイーツが専門なわけじゃない? そんな俺に、コンソメだのミルポワだのブーケガルニだの、基礎も応用もある程度まで根気よく教えてくれたのは全部匠。お前が旨いって褒めてくれる俺の料理のベースはね、全部アイツのだから」 「教えたわけじゃないよ。お前が勝手に覚えたんだし、お前のアイデアで配合だの分量だの調節できた料理もあるからな。この味だって、セロリが多めの方が特徴のある爽やかな風味が出るはずだってお前が言ったから出た味だろ?」 匠さんが...充彦の料理の先生!? 二人の過去や思い出が気になりつつも、俄然皿の上の料理に興味が湧き始める。 あの抜群に旨い充彦の料理の基礎を作った人の料理だなんて...そんなもん、旨くないわけがない! 涎でも垂らしそうになってたのか、そんな俺を見て匠さんはプッと吹き出す。 「勇輝くん、思ってたより子供っぽいんだね。最初は器にしか興味無かったのに、充彦と俺が料理で繋がってるって聞いた途端にお腹空いてきたんでしょ?」 なんとも申し訳ないけれどあまりにもその通りな話に、俺は黙ったままで頷いた。 「よし、んじゃまずは乾杯しよう。充彦との再会のチャンスをくれた山口さんと黒木くんにもほんとに感謝だよ。おかげで充彦だけじゃなく、こうして充彦の大切な家族にまで会えた。だからね、これは俺からのみんなへの感謝の気持ち」 ワインクーラーからシャンパンを取り出した匠さんは、それを充彦に手渡す。 開けろって事なんだろう。 そのシャンパンのエチケットを見て、充彦がギョッとした顔になる。 「匠ぃ、お前なぁ...いくら嬉しいっつったって、これはやり過ぎだって。それでなくても俺ら貴賓室なんか泊めてもらってんのに......」 「ん? 貴賓室に泊まってるようなお客さんはこういうの飲むもんだろ? つかさ、ほんと気にすんなって。お前が飲まないなら叩き割るぞ」 それでも栓を開けるのを躊躇ってるのを見てそっと充彦の手元を覗き込み...俺もさすがにギョッとなった。 まさかのクリュッグ...それも1995年の超レア物じゃないか...... 頭の中にパチパチと数字が浮かんでくる。 グランド・キュヴェくらいなら『お祝いだ』ってたま~に買う事もあるけど、さすがにゼロが一つ増えるヴィンテージにまでは手が出ない。 「んじゃあ、このシャンパンはツケにしとくよ。いつかお前がパティスリー出したら、同じ酒買って俺と乾杯してくれ。それでチャラにしようぜ」 いつまでも動かない充彦に業を煮やしたのか、それとも最初から用意していた妥協案だったのか。 匠さんは『いいから開けろ』と顎をしゃくる。 「早く乾杯しないと、お前の可愛い子猫ちゃんのお腹と背中がくっつくぞ」 あーーーっ、また呼び名が増えた! それも子猫ちゃんなんて誰からも言われた事無いし! こんなマッチョな子猫、嫌だろ! 「しゃあないな、俺の子猫ちゃんの為だ。何年後になるかわかんねえけど、この借りはちゃんと返すから」 あーーーっ、充彦まで子猫ちゃんとか言うし! ......いや、これはちょっと嬉しかったけど。 ようやくボトルを握っていた充彦の手が動き、ナプキンで少しだけ押さえながら親指がギリギリとコルクを押し上げていく。 充彦が余程上手だったのか、完璧な温度に冷やされていたからなのか、手の中でポンッと小さな音をたてたそこからは、誰も飲んだ事の無いような高級シャンパンが溢れる事はなかった。

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