369 / 420

大切な今、大切な過去【6】

初めて飲んだクラスのヴィンテージ。 思ってた以上に酸味が少なくてまろやかだ。 でも...結局は口が庶民なのかな? もう少し値段の安い、少しトゲトゲしいくらいに若いスパークリングの方が『飲んだ』って実感できる。 グラス半分で手の止まった俺とは反対に、航生は案外気に入ったのか、中身をグイと一気に空けてしまった。 それから何やら思い出したらしく、空っぽのグラスをじっと見つめて首を傾げる。 「どうした? 気に入ったならもう一杯入れてやろうか?」 ボトルをグラスへと近づけていく充彦の顔を見ながら、航生は頭をフルフルと振ってグラスを手のひらでひしと押さえた。 「えっと...あのですね、俺あんまりワイン詳しくないんですよ」 「知ってるわ、なんだよ今更。でも、これは気に入ったんだろ?」 「あ、はい。すっごい旨かったです。ただですね? あの...記憶違いじゃなければ、俺一回クリュッグのヴィンテージ?って飲んでませんか?」 「そうだっけ?」 「ああ、飲んだ飲んだ。お前よく覚えてたね。ほら、充彦...あの時だよ。航生が初めてうちに泊まった時に」 「......はいはいはい、そういえばクリュッグ開けたな。俺の引退記念に買ったやつ」 「あの時はあんまり飲まなかったけど、今日のは好みの味だったんだろ? せっかくだし、おかわりもらったら? こんなシャンパンなかなか出会えないぞ」 「いや...確かに前に飲ませてもらったのよりも風味がすごく優しくて、全然味が違うんですけど......」 俺は充彦の手からボトルを受け取り、エチケットを確認する。 生産年度を見て、味と値段に納得した。 「前にうちにあったのは2005年産。まあ、ヴィンテージとしては若めだね。でもこれは1995年のだから、本当に超稀少品。好みにもよるけど、過ぎた時間の分だけまろやかに優しくなってるよな」 航生の舌は、俺達が考えていたよりもずっと鋭敏だ。 知識と経験が無いからそれを明確に表現する事は下手くそだけど、わずかな味や風味の違いをこうしてちゃんと汲み取れる。 充彦のこれからの仕事の相棒として、航生を選んで本当に良かった。 航生ならきっと充彦の役に立つ。 航生ならきっと自分の夢を掴める。 なんだかその事ごと改めて乾杯したくなって、グラスを塞いでいる航生の手をそっとどけた。 キラキラと輝く金色の液体をそこへとゆっくりと注いでいく。 「ちょ、ちょっと待ってください! 前に飲んだやつでも5万だか6万だか言ってたじゃないですか。こ、これは一体......」 「ま、あれにゼロを二つ加えたくらい?」 ニヤリと悪い顔で航生をビビらせにかかった充彦の肩がベシンッと思いきり叩かれた。 呆れたようにため息をつきながらも匠さんが優しく笑う。 「ったく...変な所で大袈裟な話すんな。お前、ほんと変わったわ...周りにイイ顔するしか能がないと思ってたけど、からかったりふざけたり、人間らしいとこもこんなにあったんだなぁ。あ、航生くん、気に入ったならほんと全部飲んでくれていいからね。確かに安くはないけど、それは日本の代理店通さないで個人的にフランスで買った物だから、このバカが言うほどは高くないよ。もう開けてるから、どちみち残すわけにいかないし...ね?」 決してハンサムではないんだけど、匠さんの笑顔はとても魅力的だ。 優しさと大人のおおらかさと、そして何より説得力がある。 持って生まれた物なのか、それともこうして自分で経営するホテルを成功させているという自信がそうさせているのか。 けれど、かつて周りを信用できなかったという充彦が唯一『友達』と呼んでいたくらいだ。 きっと若い頃からこうしておおらかな笑顔を浮かべ、そして充彦の事を本気で心配してくれてたんだろう。 その匠さんの笑顔につられるように笑うと、航生は本当に嬉しそうにグラスに口を付けた。 「さてと...早いとこ昔話に花を咲かせたい所なんだけど、先にうちの名物料理の一つを食べてもらおうかな」 自分のグラスを一気に空けてから、匠さんは一旦厨房へと戻っていった。 俺の目は、再びテーブルの上の大皿へと移る。 その間に、酒を飲まない組の為のアップルタイザーや、俺達の為にウイスキーなどなどを奥さんが運んできてくれた。 「どうぞ、遠慮なく召し上がってくださいね。主人はあくまでも皆さんをおもてなしする側なんですし」 旨そうな料理を前に『待て』を命じられたワンコよろしく全く手を付けようとしていない事を気にかけてくれたらしい。 その言葉にも、それこそせっかくの充彦との再会だというのに慌ただしく動く匠さんに申し訳ないという気持ちが強くて動けずにいると、テーブルの向かいからヒョイと手が伸びてきて、皿の真ん中に積み上げてある揚げ物をつまみ上げた。 「こ、こら、慎吾さん...まだみんな誰も食べてないのに! それに、手で摘まむなんてお行儀の悪い」 「ん? せえけど、これって言うたら前菜の代わりやろ? 出してもうたら、できるだけ早めに一番美味しい状態で食べるんが逆に礼儀ちゃうの? 揚げモンなんて、熱いうちにフーフーして食べてなんぼやで」 「そんな、たこ焼きじゃないんですから...」 「あら、慎吾さんのおっしゃる通りですよ。日本ほど料理の温度に拘る国も珍しいですけど、それでもやっぱり熱い物は熱いうちに、冷たい物は冷たいまんまで食べていただくのが一番です。ですからどうぞ皆さん、遠慮なく召し上がってください。ただし、手はダメですよ」 奥さんにニコリと笑いかけられ、慎吾はエヘヘとさして悪びれもせずに笑顔を返した。 たぶん慎吾のアレはわざとだ。 変に気を遣い緊張し、食べたい料理に手も伸ばせなかった俺の為に。 よく見ているもんだな...相変わらず。 周りの空気を読み、人の顔色を窺い、自ら率先してバカを演じられる。 可愛くて賢い慎吾...充彦と匠さんではないけれど、本当に会えて良かった。 あの時航生が『これからの自分の為なんだ』と反対を押しきってゲイビ出演を決めなければ、今ここに慎吾はいないのかもしれない。 運命の神様と航生に本当に乾杯したくなる。 慎吾のその行動で、俺達はそれぞれ取り皿に料理を取り分け始めた。 ちょうど季節だからなのか、生ハムでイチジクを巻いた物がとんでもなく旨そうだ。 慎吾が摘まんだ小さなコロッケのような揚げ物や、マリネされた太刀魚のサラダも合わせて皿に乗せた。 「昔はフレンチオンリーのシェフだったんだけどねぇ...イタリアンなんかも勉強したんだなぁ」 充彦は感嘆とも取れる声を上げた。 手にしたフォークの先には、あのコロッケみたいな揚げ物が刺さっている。 充彦の声に押されて、俺はまずその揚げ物を口に運んだ。 「え? これ、クスクス!? てっきり、ジャガイモか米だと思ってた......」 サクサクの衣を噛んだそこから現れたのは、絶妙なプチプチ食感のクスクス。 ハーブの効いたドレッシングで味付けしてあるそのクスクスの中心にはリコッタチーズが入っていて、これがなんとも優しいコクを出している。 「クスクスなんてもん、よくまあこんなに綺麗に丸められたね」 「クスクスの食感を損なわない繋ぎを見つけたんですよ。これ上手く揚げられるようになるまで、うちの食卓は毎晩クスクスサラダでしたから大変で。本当に見つかって良かったです」 充彦に向かって、フワリと穏やかに微笑む奥さん。 その目は本心から充彦がこのホテルに来たことを喜んでくれているのだと教えてくれる。 昔の恩だのなんだのと言ってたけど、きっとそれだけじゃない。 充彦が来る事になり、匠さんはものすごく張り切って、そして幸せそうだったんだろう。 今の姿を見ていればわかる通り。 そして匠さんを一番近くで見ていた奥さんも、そんな様子が嬉しくて仕方なかったんだと思う。 俺だったら...いやまあ、俺は奥さんじゃないけど...でもまあ、奥さんて言えば奥さんだけど...... とにかく、俺だったら充彦がそんな風に幸せそうに張り切ってくれればやっぱり嬉しいから。 本当に素敵な人達だ。 こんな素敵な人達に『友達』『恩人』て思われてる充彦の事がすごく誇らしい。 俺は一番楽しみにしていたイチジクの生ハム巻きを大きな口を開けて放り込む。 ゆっくりしっかりと噛み締めると、たっぷりと溢れる果汁に生ハムの丁度良い塩味が混ざりあって、なんだかすごく幸せな味がした。

ともだちにシェアしよう!