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大切な今、大切な過去【7】
みんながそれぞれワイワイと話しながら大皿の料理を摘まんでいると、匠さんがまたしても大きなお皿を持って戻ってきた。
今度のお皿は磁器らしく、なんとも肌の光沢が美しい。
真っ白なそれは独特の曲線を描いていて、俺の大好きなドイツの老舗メーカーのテーブルウェアだとすぐにわかった。
その白いお皿の上には、何やら妙に整然と魚の半身らしき物がズラリ。
すべて表面は飴色に鈍く光っている。
「あーっ、これです、これ! この宿の名物料理の一つ、川魚のスモーク! うわ、さっきのブツ撮りの時の普通の丸皿に綺麗に野菜と盛ってるのも旨そうだったんですけど、これだけ大量に並んでると圧巻ですね!」
すでに一度見ているはずの黒木くんがやたらとテンションが上がってるのが、面白くて仕方ない。
匠さんは皿の横にソースの入っているポットをいくつか並べると、俺の方を向いてニカッと笑った。
「さてさて、ここでちょっとゲームさせて。さっきの勇輝くんの様子見てたら、どこまでその舌と鼻が利くのか試してみたくなった」
「たーくーみぃー、んなの別にいいだろうよ。こいつの味覚と嗅覚は半端じゃないってわかっただろ?」
「まあな。ただ、俺は充彦の才能を当時から買ってたけど、なんせブランクが長い。相当感覚の鈍ってる部分があるはずだ...違うか?」
「一応料理も菓子作りも続けてたってば。そりゃあまあ、素人レベルって言われりゃそうかもしんないけど」
「そんなお前の料理を、勇輝くんはずっと食べてたわけだろ? 勇輝くんの感覚が鋭敏であればあるほど、お前の腕は落ちてないって思える...勇輝くんを納得させなきゃなんないんだから。だからな、ちょっと勇輝くんがどこまでの感覚を持ってるのか知りたくなった。どうかな、勇輝くん? 俺のゲームに乗っかってくれる?」
これは...俺を試してるようで、本当は充彦を試してるんだ。
充彦の作る物を『美味しい』と食べている俺の舌がバカじゃないかどうか。
決してバカ舌ではないと思うけど、充彦への評価まで背負わされるとなるとさすがにプレッシャーがかかる。
顔も無意識に強張っていたのか、匠さんがそんな俺を見てプッと吹き出した。
「そんなに緊張しないでよ。大丈夫、そこそこ難問だから答えられなくて当たり前だと思ってるし。ただ少しでも答えてもらって、本当に充彦の腕は落ちてないって事に俺が安心したいだけ」
そう言われたところで、結局正解の向こうに充彦への評価がある事には変わりなく、俺は微笑む匠さんをじっと見ながら小さく頷いた。
「オッケー。んじゃね、まず1問目。この燻製には二種類の魚が使われてます。さて、な~んだ? なんなら食べてみてくれてもいいよ」
「鮎と岩魚ですね」
簡単な問題で良かった。
食べるまでもなく、スモークされた皮目の模様を見ればわかるだろ。
なんてことないとヘラリと笑った俺に、匠さんは一瞬だけポカンと口を開ける。
「あれ? 間違ってましたか?」
「あ、いや、正解...なんだけどね、まさか即答されるとは思ってなかった。鮎はまあ食べる機会もあるだろうけど、岩魚も知ってるとは」
「昔の知り合いで、渓流釣りが趣味の方がいらっしゃったんです。よく天然の鮎や岩魚をお裾分けだ~って持ってきてくださったんで」
「なるほどねぇ、こりゃあ難敵だ。じゃあ次ね。それぞれの魚は、スモークに使ってる燻製材を変えてあります。それぞれ燻してる材料はわかるかな? あ、食べても......」
「鮎はナラ材ですね。この濃いベッコウ色は間違いないと思います。色のわりに余り癖の強くないナラ材なら、天然鮎の香りも消す事は無いでしょうし」
「食べないの?」
「間違ってますか? この辺、ブナとかナラの木も多いみたいですし、自家製のチップかと思ったんですけど」
「......すげえな、正解だ。んじゃ、岩魚は?」
「こちらは...ちょっとだけいただきますね」
鮎よりはいくらか色の薄い半身を更に半分にして口へと運ぶ。
桜かと思っていたけれど、香りはずいぶんと違った。
噛み締めている間はふわりと優しく甘い香りが鼻へと抜け、舌に乗る魚自体をほんのりと甘く感じるほどだ。
けれどその香りにはいつまでも残るしつこさはなく、身を飲み込む頃にはスモークの香りよりも川魚特有の若々しい風味が口内に広がった。
ああ...なるほど......
「すごいですね。上手く色と香りを移すのが難しいって言われてるのに、さすがだ。これ...メープル、サトウカエデですよね?」
「は、ははっ...こりゃまいったな。これも作るのが趣味の知り合いでもいた?」
「いえ、カナダと貿易をなさってる会社の社長さんがいらっしゃって、その方にメープルチップで燻製にしたスモークサーモンをいただきました」
「それだけ?」
「はい、それだけです」
「お土産にもらったスモークサーモンの記憶だけ?」
なぜそんなに何度も確認されるのかと首を捻れば、俺の様子を笑いながら見ていた充彦が匠さんの肩をバンバン叩いた。
「どーよ。こんなバケモノみたいな感覚と知識と記憶力持ってるカミさんがいたら、腕なんか鈍るわけないだろ。つかさ、たぶん昔よりずっと旨いモン作ってるって」
「お前のその言葉、嘘じゃねぇな~ってさすがに思えてきたわ。じゃあ勇輝くん、これが最後ね。うちの燻製はあまり塩味を強く付けないで、食べる時にお好みでソースをかけてもらってます。その二種類のソース、どちらがどちらのソースでしょう?」
さて、これは難問...かもしれないぞ。
俺は一先ず手前のソースをスプーンに掬って鼻先へと近づけた。
芳ばしいバターの香りの中に、すっきりとした柑橘を微かに感じる。
レモンかな?
レモンよりはいくらか酸味が強い気がするんだけど......
手の甲に一滴それを落とし、舌の上へと乗せてみた。
あ、かなり酸っぱい。
レモンよりもずっと糖度の低い果実だ。
けれどバターの濃厚さと相俟って、噎せるような刺激は無い。
「これは岩魚のソースですね。レモンの代わりにすだちが使ってある、すだちバターです。メープルの甘みを際立たせる為に、酸味の強い果実を使ったのかと」
「......いや、もう驚かないけどね、やっぱりすごいわ。んじゃ、そっちの鮎のソースは何だと思う?」
「岩魚にすだちを使ってるなら、こちらはタデでしょ? タデ酢をベースにしたソースじゃないですか? 味見したらもう少し細かくわかりますけど......」
「はいはい、正解正解。タデにホワイトビネガーと岩塩で作ったソース。何、すだち農家とかタデ農家の知り合いでもいた?」
「いえ、ちょっとお金持ちの方と知り合いで、時々赤坂の料亭に連れて行ってもらってました。鮎の食べ方とか食材の合わせ方は、そちらの料理長さんに直接教えていただいて......」
「あははははっ、充彦...お前、なんちゅう嫁見つけてんだよ。お前よりはるかに上手だぞ」
「知ってる知ってる。わかるだろ? 料亭だのビストロだの、当たり前みたいに連れて行かれてた女房の胃袋掴もうと思ったら、腕を鈍らせてる暇なんてないんだって」
「まったくだ。こんな人が『旨い』って食ってくれるようなメシ作れるだけの努力、続けてたんだな......」
「まあね。でも別に努力とかじゃないよ。結局はさ...やっぱ料理が好きだったんだろうな」
匠さんはそばにあった椅子を引き、そこに深く腰をかけた。
一度目を瞑り少しだけ上を向く。
それはなんだか遠い日を懐かしんでいるような涙を堪えているような、そのどちらでもあるような姿だった。
白衣のボタンに指をかけたのをきっかけにするように、奥さんが静かに厨房へと戻っていく。
匠さんの意図を汲み取ったのか、充彦は長い昔話の為の水割りを作り始めた。
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