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大切な今、大切な過去【8】

「俺と充彦が会ったのはね、今から...7年? あ、いや...もう8年前になるのかな。ちょうど俺が30になった頃だから」 脱いだ白衣を椅子の背凭れに引っ掛け、匠さんは充彦の作った水割りにゆっくりと口を付けた。 8年前ならば、充彦はポツポツと男優としての仕事が増え始めた頃だろうか。 いや、まだまだこの仕事だけでは食えないからと、社長の仕事を手伝いつつ、ゲイビにうっかり出てしまったという時期かもしれない。 どちらにしても、いまだに埋まらずポッカリと空白になっている、俺の中の充彦の時間を知っているのだという事には間違いないようだ。 「このホテルは元々は兄貴が継ぐ事になっててね...あ、料理旅館としては結構昔から有名だったんだよ?」 「だそうですね。さっきチラッと伺いました」 「あ、そうなんだ。でね、俺は俺でこの土地にも、親父が守ってきてた旅館にも思い入れがあったからさ、近くにここの別館みたいな感じでオーベルジュ作ろうって思ってたの」 「あ、あの...オーベルジュって何ですか?」 話の腰を折る事が申し訳ないといった顔で、恐る恐る航生が小さく手を上げる。 匠さんは気にしていないとニッコリ笑うと、きちんと体を航生の方へと向けた。 「そうだなぁ...泊まれるレストランて言えばいいのかな? 料理を楽しんでもらう事が一番の目的のホテルだね。料理旅館のフレンチ版て感じ」 「で、そのオーベルジュ作る為の修行って事で、当時は銀座の老舗フレンチレストランで修行してたんだよな?」 「銀座で修行? それでなんでみっちゃんと会うん? その頃ってまだそないに稼げてない時分ちゃうの?」 至極当たり前の疑問。 普通に考えれば、その頃の二人に接点なんて無さそうなものだ。 おまけに匠さんも奥さんも、充彦を『恩人』だと言う。 なぜ? 俺も少しだけ首を傾げながら、匠さんと充彦の顔を交互に見て言葉を待った。 「まあ、ほんと偶然だったよな......」 少しだけ目線を上に向けた充彦がポツリと漏らす。 匠さんはフッと柔らかく微笑み、小さく頷いた。 「うん、すごい偶然だった。すごい偶然が何回も続けば、それはもう...奇跡だよな。俺にとって充彦に会えたのも助けられたのも、ほんとに奇跡だったよ。お前がいなけりゃ、俺は今頃包丁なんて握れなくなってたんだから」 「それで言うならさ、俺だって匠に会えたから少なくとも人をまともに信じられるようになったんだと思うよ。俺からしても、匠は恩人だって」 お互いがお互いを必死に誉め合っているような空気が照れ臭くなったのか、どちらともなくクスクスと笑いだす。 「まあとりあえず、二人とも若かったのだけは間違いないよな」 「二十歳そこそこの俺はともかく、三十路の匠も血の気多かったもんな」 「バ~カ、俺のは酒の勢いだっての」 二人の会話にすっかり置いてけぼりにされながらも、今そこに割って入る者はいない。 邪魔をしてはいけないという気持ちと同時に、穏やかに笑い合うその空気がとても心地よかったから。 ひとしきり『お前がカッとしやすかった』だの『元はそっちがきっかけだ』だの、じゃれ合うような言い争いをした所で、俺達が黙って二人の会話を聞いている事に気づいたらしい。 恥ずかしそうにペコッと頭を下げると、改めて俺達をゆっくりと見回した。 「その頃俺のいた店ってのがね、なかなかひどい店だったんだよ。マスコミにもしょっちゅう取り上げられる超有名店で、俺が入った時は3代目が継いでたのね。ところがコイツがマジでセンス無い奴でさ...料理を本気で作らないなら経営に専念してりゃいいのに、どうしても『オーナーシェフ』でいたかったらしくて。で、働いてるスタッフでシーズン毎に新メニューのコンペ開いては、選ばれたメニューに勝手にアレンジ加えて自分のオリジナルだって発表しちゃうような奴だったの。メニュー考えた奴は当然ムカつくよね。でも、その店で働いたって肩書きがあるだけで、自分の店オープンした時にはメディアが取り上げてくれるからってみんなそれに我慢してたよ」 「俺...その店どこかわかった気がします」 「マジ!?」 「その話の通りなら...たぶん。以前『老舗だから』って知り合いに連れて行ってもらったんですけど、メインディッシュのソースにもデザートの組合わせにも疑問持ったことあるんです。普通にホワイトビネガーの方が相性の良さそうな食材にバルサミコ使ってたり、すごく良いチョコレート使ってるのにやたらラム効かせて香りが台無しにしてたり」 「......間違いないね、そこだわ。アイツ、酸味付けるならなんでもバルサミコ使いたがるバカだったから」 「センスが無いって意味、わかりました」 「でしょ? まあ俺もさ、オーベルジュ開業した時にその店の威光って奴に頼ろうとしたバカだったから偉そうには言えないんだけどね...18で入ってからずっと我慢してたんだ。ところがある日、俺がコンペに出した料理を、奴がまた勝手に変えようとしたわけよ」 「またって事は、それまでにも何回も似たような事されてた?」 「うん。俺ね、まあわりと腕がいいって評価されてる方だったから、かなりメニュー採用されて、んで勝手に改竄されてたよ。でも、その時の奴の勝手な変更は...料理人としても男としてもちょっと許せなかった」 「料理人としてだけじゃなく、男として?」 匠さんは一度チラリと厨房の方へと目線を泳がせた。 それが何を探しているのかは、言葉にしなくてもわかる。 「その時のテーマが鴨を使った料理だったんだよ。で、俺はハーブでマリネした鴨を真空低温調理して、それで表面だけバーナーで炙ってフルーツソースを添えた料理を提案したの。そのフルーツソースってのが、生のブルーベリーで作った物でね」 「フレッシュのブルーベリーソース!? あ、それは美味しそうです...それに鴨自体、真空調理ならしっとりと柔らかく仕上がりますもんね」 「俺、昔一回だけ食わせてもらったけど、あれはマジで旨かった。鴨の仕上がりもソースの甘味と酸味のバランスも絶妙だった」 「俺からしたら、フレッシュのブルーベリーソースを使うのが胆だったわけ。ところがだ、奴は『うちの店のオリジナルのジャムにバルサミコ入れるほうが斬新で美味くなるはずだ。それでいく』なんて言いやがって」 「あ、あれ~? そういう問題...ですか? バルサミコ...バルサミコ?」 「ね? もうさ、ほんとコイツじゃダメだと思ったわけよ。ビネガーとバルサミコ変えろくらいなら、それでもみんな何とかスパイスとかハーブ使ってギリギリ纏めるけどさ、フレッシュのブルーベリーをジャムとバルサミコで十分とか言うんだもん。おまけに俺にとっては、生のブルーベリーを使う事が...このホテルの裏のハウスで幼馴染みが俺の為に完熟になるまで大切に育ててくれたブルーベリーを使う事が大切だったんだよ。いずれは俺のオーベルジュの目玉料理の一つにって考えてたメニューでもあったしね。だからその時、これ以上コイツの下にいたら、自分の舌と感覚がバカになるって本気で思った。で、その場で机蹴り倒して、そのまま飲みに行ったんだ...新宿に」 「遊びにも行かないで、一生懸命料理の事ばっかり考えてた男が、初めて一人で繁華街に飲みに出たんだよね~」 「そ。んでそこで...充彦に会った」 『な?』と目を合わせてくる匠さんに頷いて見せながら、充彦は自分のグラスの中身を一気に煽り、『な?』と笑い返した。

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