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大切な今、大切な過去【11】

レストランの中を、重苦しい沈黙が包み込む。 髪の毛を掴み、椅子の背凭れに体重をかけて天井を向いてしまった充彦と、ただ静かに涙を流し続ける航生。 誰も身動きなど取れず、ただみんなの潜めるような呼吸だけが響いた。 その怖いほどの沈黙のまま、どれほど経っただろうか。 それは気が遠くなるほど長い時間のような気もするし、ゆったりと大きな深呼吸一回分程度の時間だったのかもしれない。 1度『ヒクッ』としゃくり上げるような声と同時に、航生が目元をそっと押さえながら自分を包み込む慎吾の腕をトントンと叩いた。 そのタイミングを図っていたのか、上を向いたまま髪をクシャクシャと掻き回した手が止まり、大きく息を吐きながら充彦の顔が正面を向く。 その目は優しく穏やかで、だけどひどく悲しそうに航生をじっと見つめた。 「あのさ...俺はな、風俗も今俺らがやってる男優って仕事も...必要悪だと思ってんだよね」 「......必要悪...ですか?」 「うん。みんなさ、やっぱり生きていくには金が必要じゃない? 俺だって生きてたくはなかったけど死ぬこともできなくて...そうなったら嫌でも金がいるんだよな。それは俺だけじゃなく、勇輝も慎吾くんも...勿論お前もそうだったろ? 胸張って偉そうに自慢できる仕事じゃないけどさ、生きていくにはそこで金を稼ぐしかないって人間はやっぱりいるんだよ。やりたい事の為に、居場所を見つける為に、愛する人を守る為に...みんなそれぞれの事情を抱えながら本気で体張ってる。まあ勿論、セックスする事が天職って自称する人間もいるんだけどな」 『必要悪』 俺の人生は、まさしく充彦の言った通りだった気がする。 物心ついた時には既に周囲から性の対象にされていた。 そこに嫌悪感を持つという判断ができないほど幼い頃から。 いつの間にか自分の体と容姿が金を生むと教えられた俺が親に捨てられたとわかった瞬間に選んだ道は、『誰かに助けを求める』ではなく、『自分を売りに出す』事だった。 すべては生きる為で、すべては自分の居場所を探す為。 こうして充彦に会うことのできた俺の生き方を否定する気持ちはさらさら無いけれど、じゃあ他人に勧められるのかとなれば...答えは勿論ノーだ。 セックスはやっぱり...大切な人とするべきものだと知ってしまったから。 金銭をやり取りして、僅か数時間の恋人ごっこに興じるのは決して幸せじゃないと。 けれどそうしなければ生きていけない人だってたくさん見てきたわけで...だからこそセックス産業は『必要悪』なのだ。 『善』ではないのに『必要』とされる矛盾の中で、俺達は生きている。 「当時はね、俺それなりに『いい事してやってる』なんて思い上がってるとこもあったと思う。金も十分稼がしてやって、体が寂しい時にはちゃんと可愛がってやって...なんてね。それについては謝るわ、ごめん」 「なんで充彦さんが謝るんですか? 社長のとこが俺の母親が働いてた店ってわけじゃないんでしょ? それに、もし働いてたとしたって、あの人が俺を捨てたのは充彦さんのせいじゃない」 「まあ、そうなんだけどさ...でもひょっとしたらあの頃の俺の傲りのせいで、次の航生を作ってたかもしんないしだろ......」 「お前は傲ってなんてなかったよ。絶対に思い上がってなんてなかった」 とても入り込んではいけない充彦と航生のやり取りに、不意に落ち着いた別の声が混ざる。 「匠......」 「お前があの時、本気で『女にいい思いさせてやってる』なんて考えてたとしたら、俺はお前の事友達だなんて思ってなかったし、お前を『優しいクズ』なんて呼んでない。それはただの『クズ』だ」 その言葉に、充彦よりも先に反応したのは航生だった。 一度乾いたはずの瞳には、またジワリと涙が浮かんでくる。 「そうか...ふふっ...なんかすげえ充彦さんらしい...だから『優しいクズ』だったんですね......」 「充彦、お前の弟分はほんとに察しがいいな。いや...それだけお前の性格をよく理解してくれてるって事か」 「......当たり前だ。誰が仕込んだと思ってんだよ」 「ほら、また『優しいクズ』発言だ。でもね...よくわかりました。もし俺の母親が充彦さんの所にいたとしたら...きっと俺を捨てたりはしなかったんだろうって事が」 ポロポロと涙を流しながら、それでも航生はニコニコと笑いだす。 また髪を掻き毟り天井を見上げた充彦の顔は、今度は恥ずかしそうに少し赤くなっていた。

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