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大切な今、大切な過去【18】

「これね、充彦さんにどうしても食べてもらいたくて...」 雪乃さんが並べたプレートの上には、表面にこんがりと焼き色を付けてある赤みの肉が綺麗にスライスされて乗っていた。 驚くほど脂肪分が少ないらしいその肉は、中心にほんのりと桜色を残している。 一度キッチンに戻った雪乃さんは、今度は真っ白なソースポットを持ってきた。 ふわりと立ち上るのは、爽やかで甘い果物の香り。 「勇輝さん、このお肉とソースはわかりますか?」 「食べずにですか?」 「はい。食べなくても、色と香りで見当つきそうですから」 夫婦揃ってクイズか? それもこれは匠さんが俺を試す為に出したクイズとは違い、何か別の意図がありそうだ。 俺は肉の皿にそっと顔を近づけ、すぅとゆっくり息を吸う。 予想した通りの香りが鼻を抜け、それが脳と胃を直撃する。 これは...間違いなく美味い。 ニコニコと俺と充彦を交互に見ている雪乃さんに、ニッコリと笑いかける。 「肉は鹿ですね。鹿肉のロースト。岩塩とニンニクをしっかり擦り込んだ塊の表面だけ強火でしっかり焼き付けて、それをハーブと一緒に真空の低温調理したんじゃないでしょうか。中までちゃんと火が通ってるのにこの綺麗な桜色を保ってて、おまけに切ってある断面のしっとりした感じは、余熱で火を通したというより旨味と水分を逃がさないようにしながら低温でゆっくりと加熱したんじゃないかと思ったんですけど......」 「やだ、すごい! 調理法まで当てられちゃった」 「こちらのソースは、ブルーベリーと赤ワインのソースですね。あ、いや...カシスも入ってるかな? どちらもフレッシュの物使ってますよね」 「フレッシュベリーの...ソース?」 充彦が俺の言葉を反芻し、少しだけ驚いた顔で匠さんを見た。 匠さんは嬉しそうな顔で小さく頷く。 「気づいたか?」 「んなもん、わからないわけがないだろうよ! お前が俺に初めて作ってくれた料理じゃん...ほんとお前の才能に、俺感動したんだから」 「この鹿肉のローストがね...うちのホテルの目玉料理の一つなんですよ。そしてこの大切なソースを充彦さんが守ってくれた......」 雪乃さんが静かにゆっくりと充彦に向かって頭を下げる。 事情が今一つ飲み込めない俺達に、匠さんは料理を勧めながらやっぱり穏やかに笑っていた。 「あっちこっち骨折して、俺の意識が朦朧としてる間にね、充彦は名刺を頼りにオーナーの所に一人で乗り込んでたんだって」 雪乃さんは俺達の手元のシャンパングラスを片付けると、代わりに大きめのワイングラスを置き、そこに赤ワインを静かに注いでいく。 その手付きからすると...かなりのオールドヴィンテージかもしれない。 グラスを小さく揺らして香りを立たせる。 そっと顔を寄せれば、随分と年代が経っているとは思えないほどに華やかな香りが鼻を擽った。 「ラトゥール...でしょうか? 俺は赤のヴィンテージはマルゴーとラトゥールくらいしか飲んだ事が無くて申し訳ないんですけど、マルゴーに比べるとしっかりと重厚なのに、どこかまだ若さも感じられる気がします」 「本当にすごいんですね。ワインの知識まであるんですか?」 「あ、いえ...一度食べたり飲んだりした物を殆ど忘れないだけなんです。だから自分で味わった事の無い物の知識はからっきしですよ」 「ただその味わった物のレベルが、とにかく桁外れに高いけどな」 からかうように呟く充彦にチラリと目線だけを送りながら、その深い紫色の液体を口に含んだ。 これは重い...ガツンとタンニンの渋味が一気に口の中に広がる。 けれどその渋味は決して不快ではなくて、喉を通っていく時にはその渋味はサラリといなくなった。 代わりに濃厚で複雑な甘味と酸味の入り交じった香りが口から鼻へと抜けていき、それはいつまでも心地よく続く。 その香りが残っているうちに、たっぷりとソースを纏わせた肉を口の中へと押し込んだ。 ワインに負けない凝縮された旨味と適度に感じる肉の弾力。 けれど決して硬いわけじゃなく、ぐっと噛み締めればあっさりと歯が食い込んでいく。 そしてその肉の味を引き立てるのは、やはりソース。 新鮮なベリーだからこその甘味と爽やかな酸味が鹿肉の癖を見事に消し、最高のワインとの完璧な橋渡し役になっていた。 すごい...勿論フレッシュベリーもだけど、たぶんベースのフォンドボーが美味いんだ...... ワインも肉も、口へと運ぶ手が止まらない俺を見て、みんなが皿へと手を伸ばし始める。 「うわっ、うまっ」 「このソース、いいですね...甘いけどしつこくなくて、だけどちゃんと主張してる」 「俺が寝てる時にさ、なんかかなりうなされて譫言言ってたらしいんだ。『お前じゃ、ほんとのソースの味は出せない』とか『俺の大切なソースは絶対に使わせない』なんてね」 「普通なら放っておきますよね? だって、どこの誰だかわからない男の、ただの譫言ですもの。本当なら病院に連れていってくれただけで十分じゃないですか。だけど充彦さんは名刺を頼りにオーナーに直接話をしに行って、これまでこの人がプレゼンしてきた料理とソースを一切店で使わないって約束させてくれたんです。例えアレンジしてたとしても、この人の考えたレシピを元にしてる物は絶対に使わせないって」 「それは...あれだよ、匠の入院費用を請求に行ったついで! あそこは保険効かないからさ、実費で負担しきれないもん。病院から直接請求書送ってもらうから、全額きちんと払うようにって約束させて......」 「でもさ、俺が寝てる間にカバンの中に入れてた俺のレシピノート見たんだろ? んで、俺が考えたレシピは使わないようにって誓約書まで取ってきてくれたじゃん」 「そりゃあお前...マジでどこの誰だかわかんないし、せめてなんか身元わかるもん無いかなぁと思ってカバンの中漁ってたら...見つけちゃったんだもん。譫言で言うくらい嫌だったわけだろ? うなされるくらいに許せなかったんだろ? だったら病院代の話し合いするついでにそれくらいの約束はさせてもいいんじゃないかって...まあ、そんだけだよ!」 充彦は赤くなりながら、わざと雑に肉を切るとそれを無理矢理口の中に押し込んだ。 たぶん違うんだろうな...確信めいた思いが広がる。 それこそ病院代の話こそついでだったんじゃないだろうか。 匠さんの繰り返される譫言と、書き込まれたレシピノートに込められた思いを、きっと見なかった事にはできなかったんだ。 「この人が一流の料理人になり、私がそれを一生支える...それが私の小さい頃からの夢でした。この人の料理に合うデザートを作りたいからという理由でパティシエになりました。ブルーベリーもカシスも、タイムもローリエもバジルもセージも...この人の為にずっと私が育ててきた物です。このソースは私のそんな思いにこの人が応えてくれた物でした」 「ソースにはフレッシュのブルーベリーを使わないと意味が無いって俺が言ってるのに、あのクソオーナーは冷凍で十分だなんて言ってさ...あんな味のわからない奴に、俺と雪乃の思いの詰まったソース、使わせたくないじゃん」 「充彦さんはこの人の腕を守り、味を守り、そして...私の思いとこのホテルを守ってくれたんです。本当に、どれほど感謝しても足りません」 うっすらと涙を浮かべる雪乃さんの様子にますますバツが悪くなったのか、いつしか充彦の頬っぺたには飲み込みきれないほどの肉がパンパンに詰め込まれていた。

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