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大切な今、大切な過去【20】

「体がほぼ元に戻るまでに...3ヶ月近くかかったのかなぁ...その間ね、無駄な言い合いしながらも結局居心地良くて、充彦の部屋に居候続けたんだ。掃除・洗濯・炊事して、ひたすら旦那様の帰りを待ってる健気な奥さんって感じで」 「健気な奥さんが、俺が部屋に戻るたびに『また香水の匂いが変わった』だの『今度はどこの女だ!』なんて言うかよ。嫉妬深い鬼嫁だっての」 「それだけ旦那様の事を心配してたって事だろうが。ありがたく思えよ」 軽妙で楽しげな悪態合戦は充彦と航生のやり取りに似てるようで、それでもやっぱり少し違う。 航生相手だと、どうしても絶対的に充彦の方が強くて航生が弱いって立場が当たり前になってるけど、匠さんが相手だと完全に同等の言い合いで...話の内容はともかく、二人ともやけに楽しそうで表情を幼くしてて...... 俺は知らないけど、きっと同級生の悪友なんてのは自然とこんな空気になるもんなんだろうなぁって、少し羨ましくなった。 「そうそう、その部屋を掃除してる時にね、段ボール箱に丁寧に詰められたままになってる製菓学校時代の教科書とか、長いこと使った形跡の無い寸胴とかセルクル見つけたんだよね。その教科書がほんとにすごかったんだ。講義の最中に講師の先生がちょこっと口走っただけなんだろうなって言葉までぴっちり書き込んであるの。道具だって、長いこと使ってないかもしれないけど、大切に使い込んでたんだろうってのが一目でわかるくらい手入れされててさぁ」 「ああ、その教科書なら今でも部屋にちゃんと置いてありますよ。これだけは絶対捨てられないって、引っ越しの時も全部持ってきてましたから」 「あ、やっぱり? それ見てね、コイツは本当にこの世界に行きたかったんだろうなぁって気付いた。でもさ、同時にその事を完全に自分の中で無かった事にしようとしてるんだとも思ったんだ。段ボール箱の蓋すら開けてなかったし。でね、充彦の腕なんてわかんなかったんだけど、ちょっとでも料理への情熱を思い出してくんないかなぁって考えて、そっから本気の料理作って充彦の帰り待つようになったんだよね」 「それまでなんて、せいぜいチャーハンかラーメンくらいしか作んなかった癖に、ある日帰ったらいきなりこのソース出てきたんだよ! さすがに驚かねぇ? 俺は驚いた、めっちゃ驚いた! コイツが料理人だってのはわかってたけどさ、まさか自分とこのきったない部屋で、こんな料理出てくると思わないじゃん」 「ま、あの時は鹿とか鴨なんて手に入んなかったからラム肉だったけどな。いきなりだったし、荒療治にもほどがあるって自分でもわかってたんだけど、それでもさ...『美味い物を食べる幸せ』くらいは思い出して欲しかったんだ」 「恥ずかしながら、まんまとお前の策略に嵌まったもんな。次の日から仕事の空き時間見つけては、匠に料理教えてもらうようになった。ほんとに忘れてたもん...俺、自分がめちゃめちゃ食いしん坊だったって。匠が作ってくれる飯も教えてくれる料理もほんと美味くてね...ただ空腹を満たすだけが食事じゃない、気持ちの飢えだって満たしてくれるんだって思い出した。お袋の飯食ってる時はあんなに美味い物を食うの好きだったのに...お袋に食べさせたくて、一生懸命美味い物作る努力してたのに......」 食い道楽で、そこにしか興味が無いだろうと思ってた充彦に、『食』への興味が薄れてた時期があったなんて。 完全に料理から離れてた時期があったなんて。 信じられなかった。 充彦が完全に食への興味を失ったままだったら、きっと俺達の進むべき道も変わってるはずだ。 ひょっとすると性格や雰囲気も今の充彦とは全然違ってて、俺との出会いも関係も違うものになってたかもしれない。 そんな事を考えてる俺に気付いたんだろうか。 充彦がフワッといつになく柔らかな笑みを向けてくる。 「何かに必死になって、何かに執着するって事の大切さを少し思い出したんだ。あの時、『今すぐじゃなくていいから、いつか絶対にこっちの道に戻れ。お前の料理を捨てるな』って匠の言葉と行動が無かったら、勇輝に必死になる事もできなかったかもしれないな」 「俺らが出会ってなかったら航生はここにはいなかっただろうし、そうなると慎吾と再会もできてなかったね」 「俺はあの時勇輝さんと充彦さんに会ってなければ、今頃生きてなかったかもしれません」 「勇輝くんとみっちゃんが付き合うてなかったら、俺はいまだに勇輝くん探して大阪でフラフラしてたんやろうなぁ......」 「匠さんこそ...俺達4人の大恩人だね」 俺の言葉に、レストランの中はシーンと静まり返った。 呼吸の音しか聞こえないくらいの静寂。 だけど不思議と穏やかで優しい空気に包まれていて、ちっとも不快じゃない。 「俺の姿を...ちゃんと人を愛せるようになった俺の姿を...誰よりもお前に見てほしかった。ずっと思ってたんだ...愛想尽かされたのかもしれない、本当に嫌われたのかもしれないって思いながら...それでもいつか必ず会えるはずだって信じてた」 「ずっと見てたよ。AVなんて興味も無いのにな、お前が出てるビデオもグラビアも、たぶん殆ど持ってる。雪乃にはちょっと呆れられたけど、それでもお前の姿を追わずにはいられなかったんだ。こっちに戻らざるを得なくなって、ちょっと生活が落ち着いてお前に連絡取ろうとしたら、もうあの部屋にはお前はいなくて...俺は遠くから見守る事しかできないんだって諦めてた。でもな、ほんとは俺もお前にずっと見て欲しかったんだ...お前が守ってくれた俺の腕と俺の味で、こうしてちゃんとホテル立て直した姿」 「匠...お前の料理も、このホテルもお前の奥さんも...ほんと最高だわ」 「充彦...お前の嫁さんも弟分も、そしてこれからの夢も...最高だよ」 徐に立ち上がった充彦に合わせるように、匠さんも慌てて立ち上がる。 驚くくらいの凸凹コンビは、目を微かに潤ませながらしっかりと抱き合った。 「匠、ありがとな」 「こっちこそ、ありがと。んで...ようこそ、我がホテルへ!」 「はいはい、感動の再会と長いお話は終わりましたか~?」 やはり目を潤ませた雪乃さんが、なんでもない顔でまた大きなお皿をテーブルに並べだす。 「あなた、いい加減にしてあげないと、いつまでたっても皆さんお腹いっぱいになりませんよ。残りの思い出話は、ちゃんと食事が終わってからにしてください」 お皿の上には、綺麗にオイルを纏ってパラリと仕上がったピラフが山盛りになっている。 「いんげん豆とパンツェッタのピラフです。お嫌いでなければこのチーズソースとかアリッサソースかけて食べてくださいね。お腹膨れたら、また改めてお話ししましょう。オツマミとお酒は、それこそ売るほどありますからね」 「山口さん、明日顔浮腫んでたらごめんね」 「んなもん、さっきの話聞かせてもらって、今更どんな顔で『酒飲むな。夜更かし厳禁』なんて言えるんだよぉ。俺、そんな鬼じゃないも~ん」 「じゃ、こっからは皆さん、本格的に食って飲んで、目一杯楽しみましょうか」 航生が充彦の手にグラスを握らせると、ピシッと立ち上がる。 「充彦さんと匠さんの再会に...そして俺達がここにいられる事を祝して」 航生のくせに、音頭なんて取りやがって...... けど、そんな航生を見つめる充彦の顔はひどく嬉しそうで...... 俺も立ち上がり、右手のグラスを高く掲げる。 「乾杯!」 「「カンパーイ」」 楽しくて賑やかで、そして長い夜が改めて幕を開けた。

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