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Lady Bomb【3】
床を転がる箸とこぼれたアジの身を拾い、しゃがんで充彦の足下をティッシュで丁寧に拭いていく。
『あ~あ、こんなに脂が乗ってるアジ使わなきゃ良かったなぁ...床、ベタベタになっちゃった...』なんてぼんやり考えながら、ただひたすら一生懸命に。
なんだか目の前が少し滲んでる気がするけど、そんな事構ってる暇もないくらい本当に必死に。
いきなりポンと大きな手が頭に乗り、そのまま充彦の顔が俺と同じ位置に来た。
「話の内容が俺の中で上手く繋がらなくて、ちょっとビックリしただけだ。別にお前とか馨さんを卑下するつもりも、馬鹿にするつもりもない。ごめんな?」
そっと充彦の指が俺の頬に触れる。
「泣かせるつもりなんて無かったのに...」
言われてみて、改めて自分が涙を流している事に気づいた。
慌てて顔を隠そうとして、更に近づいてきた充彦の唇に阻まれる。
それは優しく目元に触れ、瞼に触れ、そしてほんの少しだけ俺の唇を掠めていった。
「ほんとに驚いただけだし、それでお前や馨さんに対してどうこう思うって事は絶対に無いから。だからちゃんと全部聞かせて。SMの世界だとそういうプレイがある事は知ってるけど、勇輝が受け入れてたって事は...プレイの一環だったってわけじゃないんだろ?」
俺が頷くと、充彦が脇に手を挿し入れてきて立ち上がらされた。
そのまま体を抱き締め、俺を膝に乗せるようにして椅子に戻る。
俺に気を遣っているのか、充彦は背中から前へと腕を回し、無理に目を合わせようとはしなかった。
「馨さんは、要は『抱かれたい人間』じゃなくて『抱きたい人間』だった...って事でオッケー?」
「......そう。初めて店に来た時は...俺が19になったくらいだったかな。『誰と寝ても、必ず相手を満足させるって噂のユーキを見に来た』ってフラッて笑いながら入ってきたんだ。まあ見た目はあの通りの美人じゃない? んで話してみたらさ、アートから料理、国際情勢から流行りのアイドルに至るまで話題もすごい豊富でね。こりゃあ喋ってるだけですごい勉強になる人だなぁって思ったのが第一印象。俺を気に入ったのか、週に何回かは飲みに来てくれるようになって、いつの間にかすっかり常連になって...そしたらさ、大人のカッコいい女性ってだけじゃなくて、ちょっとドジだったり仕草が可愛いかったりするのがわかって...たぶん俺、ルルちゃんが来てくれるのを結構楽しみにしてたと思う」
考えれば、ひょっとするとあれが初恋だったのだろうか。
いや、まだあれは恋とすら呼べない、ただの憧れだったかもしれない。
けれどルルちゃんに対して、他の客とは違う感情を持っていたのは間違いなかった。
「店に来るようになって1年近く経った頃かな...ルルちゃんに、『保証金入れたから、できたら今日は付き合って欲しい。アタシを選んで』って言われたんだ。正直ね、ショックだった。ルルちゃんとはそういう事抜きで付き合っていけるって勝手に思ってたから。でもルルちゃんはルルちゃんでね、俺がルルちゃんをちゃんと受け入れられるのかどうか、必死で見極めようとしてたらしい」
「受け入れられるってのは...その...勇輝を抱きたいって意味? でもさ、さっきも言ったけど、プレイとして男を抱きたいならSMコミュニティー当たるほうが手っ取り早くね? それに、ただタチでありたいなら、レズビアンバーとか行けばいくらでも相手なんて見つかるだろうに...」
「初めての夜にね、ルルちゃんから『抱きたい』って言われた時、俺もそう思ったの。本人にも聞いてみたよ。そしたらさ、なかなか難しい答えが返ってきた」
俺はビールを一度口に含むと、体の向きを変えて充彦に跨がる格好を取った。
「ルルちゃんは、あくまで恋愛対象も性的対象も、男性なんだ。普通に男の人が好きな女性なの。だから、ビアン・バーは論外だった。それにね、別に相手を屈伏させたいから抱きたいって事じゃなくて、好きになって性的な興味が湧くと、『抱く』って形で相手を気持ちよくしてあげたくなるんだって。だから決してプレイのつもりもないって」
「それは......難しいな...」
「うん、だよね。俺も最初はルルちゃんの言ってる事がよく理解できなかった。素直にそう言ったらね、ルルちゃんは『そりゃあそうか』って豪快に、でも今にも泣き出しそうな顔で笑ったんだ。そんな顔見てたらね、ルルちゃんはルルちゃんで、きっと今まで色々な思いしてきてて、俺に『抱かせて』って言うのにも大きな覚悟があったんだろうなって思った。だから俺、言ったんだ...『言葉で説明されてもよくわからないから、とりあえずルルちゃんのしたいようにして』って」
「そうか...」
まだよくわかってはいないだろう充彦は、それでも俺の腰に腕を回すと、しっかりと強く抱き締めてくれた。
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