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少しだけ昔の話をしよう【5】

それから俺は、いかにも安っぽい感じのグレーのスーツに着替えさせられた。 鏡を覗き込んでみると、あまりの似合わなさに吹き出しそうになる。 顔に似合ってないのも勿論だけど、なんせこういうビジネススーツを着なれてないせいか、いかにも『借り物』って感じがするのだ。 まあもっとも俺の役柄が『いきなり先輩に呼び出された新入社員』だから、あまり着なれていないくらいの方が雰囲気はあるらしい。 ......衣装さんが、俺を可哀想に思って慰めてくれただけかもしれないけれど。 着替えが終わり、俺が入り口前に待機した時にはもう中での撮影は始まっていた。 いつもなら自分の出番以外は監督の隣でモニターのチェックなんて事をするんだけど、どうにも今日はそれどころじゃない。 俺の中に、『新入社員の勇輝』が入って来ないのだ。 何度も深呼吸を繰り返し、固く目を瞑る。 きっと慣れない現場の空気に飲まれているだけだ...落ち着け......落ち着け...... 何度も何度も自分に暗示をかける。 俺は大学を卒業して、ようやく会社の組織というものがわかり始めた程度の新入社員。 今日は、日曜日だというのに同じ部署で営業成績バリバリのトップを突っ走っている憧れの先輩にいきなり呼び出され、ちょっと戸惑っている。 憧れの...先輩... 深く役に入ろうとするたびに現実に引き戻されて胸が高鳴る。 憧れの先輩...憧れの... 思うたびに頭に浮かぶのは、いもしない歳上の会社員ではなく、ついさっきまで俺の目を真っ直ぐに見て浮かべられた笑顔。 涼しげな目元と、やけに色っぽい唇。 ヤバいヤバいヤバいヤバい...... こんなことは初めてだ。 夜の客に頼まれた時でもAVの現場でも、変わるべき人間のイメージさえ固まれば気持ちを切り替えるのは一瞬の事だった。 なのに、なぜか今日は変われない...どれだけ役柄を思い浮かべても、どれだけ台詞を唱えても、俺はどうしても俺のまま。 いつ出番だと声がかけられてもおかしくないのに...俺の意識はいつの間にか、あのみっちゃんの笑顔に辿り着いてしまう。 誰かの顔が頭から離れないなんて経験もしたことはない。 そんな経験、何もこんな場所で...それも共演者で男だというのに... 「はい、勇輝くんお待たせ。じゃあ、台詞言いながらドア開けて、中を見て驚くとこまで撮るよ。そのシーン終わったらあとはみっちゃんに任せて、カットの声がかかるまで流れ止めないでね」 「は、はいっ」 俺の売りの一つは、少し低めで掠れ気味の声らしい。 その俺の売りは無様なくらいに裏返り、まともに相手に聞こえているのかもわからないほどだった。 「はい、じゃあ...3、2、1...スタートッ!」 それでもまだ俺のまま。 別人になりきれていない事に焦りながらも、俺はノブに手をかけた。 「失礼します。先輩、急ぎの御用ってなんです...」 中に足を踏み入れ、俺の体は固まった。 さっきまで俺に食って掛かってきていたのと同一人物と思えないほどにトロリと甘えた顔をした女は、力なく背後の男にしなだれかかっている。 胸元ははだけ、足を広げられているせいで捲れ上がったスカートの中には何も身につけていない。 その既に濡れた秘部を見せつけるように指で大きく開いている男は、少しネクタイを緩めているだけで他の部分には何の乱れもなかった。 チラリとさっきと同じ涼しげな目が俺に向けられる。 秘部を捏ねる指はググッと柔らかな肉の中にめり込んでいき、グジュとイヤらしい水音が俺にまで聞こえた。 女の口からは悲鳴のように高い声があがり、それを塞ぐようにあの厚い唇が女の唇を貪る。 ますます溶けていく女の表情と、チラチラと覗く絡み合う舌。 ここから...あれ? どうするんだっけ...何を言えばいいんだっけ...... 唇を解放すると、今度は挑発するような少し嫌みな笑みを浮かべながら女の首筋を舐める舌に釘付けになる。 アワアワとしたまま台詞も言えず、その場を動く事もできないでいる俺に、徐々にスタッフの動きが慌ただしくなってきた。 なんとかしなければ...何か言わなければ... カットがかかってNGになって...下手したらこのまま俺は降ろされる。 ダメだ...あの人のそばに行きたい...あの人の息遣いを感じたい... 焦れば焦るほど、俺の体は床に縫い止められたように動かなくなった。 視界の端に、ため息をつきながら首を振る監督の姿が映る。 もうダメだ、いよいよだ...そんな風に思った瞬間だった。 女の内部をグジグジと弄っていた長い指を一気に引き抜き、みっちゃんが俺の方を見ながらその濡れた指先を口に含んだ。 その仕草に、ドクッと心臓よりもうんと下の方が大きく脈打つ。 ゆっくりとその指を自分の口から抜き取ると、ヌラリと光る指先を俺の方に伸ばしてきた。 「おいで、勇輝。こっち来て、気持ちよくしてあげるの手伝ってよ...」 たぶん俺は、恍惚に近い表情をしていたと思う。 俺を誘ってくれたわけじゃない...俺を気持ちよくしてくれるわけじゃない... けれどみっちゃんの言葉に従えばきっと褒めてもらえる...また頭を撫でてもらえる... 俺へと伸ばされた指先に導かれるように、フラフラとベッドへと歩み寄る。 「ビックリさせてごめんな。でもさ...ちゃんとお前にもそれなりにイイ思いはさせてやるから」 ああ、これは台本にもあった台詞だ...完全に逆上せていた頭が少しだけ正気を取り戻す。 「先輩...ほんとに俺で...いいんですか...?」 出た! 震えながらだけど、ようやく俺の台詞が言えた。 みっちゃんの笑顔が更に穏やかになったように見えたのは...気のせいだろうか? 「いいんだよ、勇輝だからいいんじゃん。俺の一番大切な後輩なんだからさ」 あれ? そこはただ、『気にしなくていいよ、早くして』って言う所じゃ...? でも、気まぐれなアドリブにしても、『一番大切』なんて言われた事に間違いなくテンションが上がった。 俺、何もかも初めてだ。 役になりきれないのも、誰かの事が頭から離れないなんてのも、そして...一番大切だって言われるのも。 ドキドキする。 なんか俺、心臓が爆発して死ぬかもしれない。 これ、なんだ? この気持ち、なんだ? 「ほら、待ってるから舐めてあげて」 みっちゃんに言われるまま、女の秘部に顔を埋めた。 ポンポン...またあの手が、『イイコイイコ』するみたいに優しく頭を叩いてくる。 温かくて大きい手が。 女の溢れる滴を舌で舐め取りながら、俺はなんだか幸せで切なくて泣きたくなってきた。

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