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汗もしこりも流してしまおう【6】

最高に美味い朝食を全力で腹に詰め込みながら、改めて今日のここからの予定を確認する。 川魚の養殖場には10時過ぎに行く。 そこは養殖した魚の販売や食堂もやっているとかで、手づかみ体験をしてから塩焼きのイワナにかじりついてる写真を撮りたいんだそうだ。 時期が合えば鮎も取れるそうで、このホテルの名物である川魚の燻製もすべてここの魚らしい。 そこからは少しだけ山道の散策。 都会とは違い、山に囲まれたこの辺りは秋の訪れが早い。 まだ家の近所では一部がほんのり色を変え始めたばかりの紅葉も、もうほぼ美しい朱で染められていた。 匠に頼めば専門のガイドさんを手配した上でキノコ狩りもできるらしい。 もっとも今日はそんな時間も無いので、勇輝と慎吾くんには夜のキノコ狩りで我慢してもらおう。 近所には漆塗りの工房とステンドグラスの教室もあるそうで、こちらも2,000円ほどで教えてもらえるんだそうだ。 これも時間が無いから行けないと言われた時には、慎吾くんがひどく残念そうだった。 アーティスティックな面がある慎吾くんは、できれば体験してみたかったらしい。 もし本格的にステンドグラスを習ってみたいというなら、それはそれで面白いかもしれない...いつかは自分の店の内装を慎吾くんに考えてもらいたいと思ってるわけだし。 昼前には宿に戻り、車を借りて例の牧場へと向かう。 そこでは牛の放牧の様子を見せてもらうのは勿論、あの最高に美味いフレッシュチーズの工房も見せてもらえるらしい。 モッツァレラやブッラータは出来立てが一番美味いと思ってる。 ここであの味であっても、都内の俺達の元に届く時にはおそらく風味が僅かながら落ちているだろう。 これは仕方ない。 しかし、牛乳を送ってもらい、俺達自身が作ればどうだ? 一番良い瞬間の味を、一番良い状態で提供できるはずだ。 今や専門店ができるほど、フレッシュチーズの味は浸透してきている。 店内で作り、出来立てのブッラータを提供し、出来立てのクリームチーズでタルトを焼く...話題にも目玉にもなるだろう。 チラリと航生に目線を遣る。 俺の視線に気付いた航生は、『皆まで言うな』とばかりにニヤリと笑い親指を立てた。 牧場から戻ると、今度は休む暇もなくビデオの撮影。 これは俺と航生、勇輝と慎吾くんに分かれて撮る事になっている。 山口さんは勇輝達の撮影に専念するそうで、俺達は自撮りというか固定カメラでの対談にするしか無いだろう。 それから7時過ぎからは館内の割烹で、もう一つの自慢だという懐石料理の夕食という流れ。 頭に今日の予定を入れながら、少しだけ面白くない気持ちになる。 ここに来てからの俺はひたすらカッコ悪いばかりだし、匠や雪乃さんの世話になりすぎだ。 確かに昔、理不尽な暴力からアイツを助けたとはいえ、未来の俺の夢にまで『恩返しだ』などと世話になりっぱなしなのはいかがなものか。 未来の俺を助けてもらうなら、俺だって未来の匠の力になりたい。 ふとテーブルの下で勇輝に手を握られた。 それは『任せておけ』なのか『心配はいらない』なのか、それとも『お前は黙ってろ』なのか... そ知らぬ顔で俺の手を握ったままの勇輝は、ニコニコと無邪気にも見える笑顔を浮かべながら雪乃さんに声をかけていた。 「こんなにすごい牛乳と卵が手に入るし、ベリー系の果実は自分の所で収穫できる。パティシエとして、こんなに素敵な環境って無いですよね。あ、でも他の果物やナッツなんかはどうしてるんですか? やっぱり契約農家さんとか?」 「そうですね、ジャムに使うのでリンゴは直接青森の農家さんから送ってもらってるんですよ。アップルパイやタルトタタンも人気があるので、リンゴは欠かせないですし。でも、他の果物になるとなかなか直接声をかけさせていただける伝が無くて、東京の中卸さんから送っていただく事になるんですけど。良い物を厳選してもらってるとはいえ、追熟させてる物ではなく完熟の果物を使いたいなと思う事はどうしてもありますね。ナッツも最近は中東の情勢のせいもあって、値段も品質も安定しないのは頭痛の種です」 雪乃さんがそう言った途端、勇輝が更に強く俺の手を握る。 ......はいはいはい、なるほど...そういう事ね。 「よっしゃ、腹も膨れた事だし、ボチボチ部屋に戻って準備するか」 慌てるように俺に続いて立ち上がった勇輝の姿に何かを感じたんだろう。 少し面白そうに口許を綻ばせながら航生と慎吾くんも立ち上がる。 「匠も雪乃さんもありがとうね。あの牛乳は俺の作る物を変えると思うわ。この礼は必ずするから。じゃあ黒木くん、10時にフロント前でいいかな?」 「あ、はい、それで大丈夫です」 「んじゃ全員、ちょっと色々と準備と打ち合わせしようか」 『ごちそうさま』と頭を下げレストランを後にする。 俺の後ろには残り3人がどこか楽しげに黙ってついてきた。

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