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未来の為に舌鼓【3】
足元だけは汚れないようにと、作業用の長靴に履き替えた。
そのまま案内され、短い草で覆われた緩やかな斜面をみんなで上がっていく。
「この辺りは、春から夏の餌場なんです。今は枯れたような、短い草ばかり生えてるでしょ? で...ほらね、あの辺りが秋の放牧場。これからは寒くなるし雪も降るから、その中でも間違いなく成育するイギリスの長く伸びるタイプの芝を植えてあるんです。春先からはこちら側で、シロツメクサも混ぜた自然の草を食べさせてるんですけどね」
小高い丘の上から、健一さんが長いとは言えない腕を目一杯に伸ばしながら説明してくれる。
なるほど、たしかに綺麗な茶色の集団はここから見える範囲の3分の1くらいの場所に集中しているようだ。
「ほんまにこうやって生えてる草しか食べさせへんのですか? もし『今日はあんまり腹減ってないし、まあ食べんでええか?』なんて牛がおったら、搾乳量って減るでしょ? それやったらちゃんと時間決めて、ちゃんと毎日おんなじ量の餌食べさせる方が安定して牛乳の生産できるんじゃないんですか?」
「うーん...まずね、ストレスの限りなく少ない状態の中で出産した牛は、ちゃんと子供にミルクを飲ませてやる為にもちゃんとご飯食べるんです、ほっといても。ただ、例えば少し風邪気味だなぁとかお腹の調子悪いなぁって時、みんなもご飯食べたくなくなるでしょ? どうしても食べろなんて無理矢理口に押し込まれたら、吐きそうになりませんか? 牛も一緒ですよ。食べたい、食べないといけないってタイミングはその牛ごとに違うんです。元々少食な上に神経質で人がそばにいると餌が食べられない子もいるし、それこそ肝っ玉母ちゃん的に『風邪なんて、ご飯食べてりゃ治るわよ』って感じの子もいる。だからその食事のリズムを牛自身に任せてやるだけでも断然その子達の負担が減るんです。あとね、自分の体調に合わせて土を舐めてミネラルを補給しますしね」
「自分で...ですか?」
「完全飼育だとね、やっぱり飼料の中にサプリメント的な物を混ぜてやらないといけない事が多いです。それは自分達の体に今必要な物を自分達で摂取する事ができないからです。でもここなら違います。確かに生産量は増えないし安定も難しい...けど、健康な牛だからこそ出せる健康な牛乳が搾れるんです。そうそう、牧場に立ってみて何か感じませんか?」
牛の方に向かいながら、健一さんがニコリと笑う。
何かなんて...急に言われても......
「放牧ですからね、当然トイレなんてありません。どうですか? わかりませんか?」
......あ、そうか。
「全然臭くない...」
「あ、確かに。動物の匂いってのは勿論するんだけど、糞尿の匂いは全然無いな」
「でしょ? 薬もサプリメントも人工飼料もあげてない...みんなここに生えてる草だけを食べてるからなんです。化学物質も油分も蛋白質も、牛が自然に暮らす為には要らない物で、それが無ければこんな風に不快な匂いも最低限に抑えられるんですよ」
「もしかして、牛乳の香りがまったく違ってたのも?」
「草の香りです。だから、食べる餌によって微妙に香りが変わります。春先のシロツメクサを食べてる時の香りが一番僕は好きですね...」
「季節ごとに...牛乳の香りが変わる......」
何か考えているらしい充彦の瞳がキラキラと輝く。
これはきっと自分の作るお菓子作りたいお菓子のイメージが広がってるんだろう。
その表情がまるで楽しいイタズラでも思い付いたかのようで、見ているだけでワクワクしてきた。
慎吾もそれに気づいたのか、構えたビデオを充彦に向けてズームアップする。
「健一さん...ヤバいですね...季節ごとに味の変わるミルクなんて、どんだけ扱いにくいんですか」
「でしょ? でも、扱いにくい分、良い物ができた時の喜びはひとしおですよ」
「......最高に気持ちいいでしょうね、その季節の牛乳ごとにピッタリなレシピ見つけられたら。おまけにそれが、店の売りにもなる」
「任せてください。最高の牛乳を、最高の状態でいつでも届けられるように準備しておきます」
なるほど...月替わりメニューに旬の果物だけじゃなく、『旬の牛乳』を考えてるのか。
全部を比べてみないとどの程度違うのかわからないけど、今飲んだ牛乳があれなのだ。
一番香りが良いと胸を張った春の牛乳はどれほどの味だろうか?
青々とした草の香りがするんだろうか?
花を思わせる爽やかな香りだろうか?
それとも濃厚な、躍動感に溢れる牛乳らしい香り?
ああ、それを充彦がスイーツに、料理に使うのだと思うだけで胸がドキドキする。
そしてその、香りの変わる牛乳で作るチーズはどんな味になるんだろう。
「こちらで搾乳します。オッパイが張ってきて苦しくなってきた母牛は、ここでこうしてベルを鳴らすだけで......」
健一さんが搾乳小屋の入り口に釣られているベルを小さなハンマーでカンカン叩いた。
じきにのんびりと横たわっていた子、ひたすら草を貪っていた子など、6頭が一斉にこちらへと向かってくる。
その大きさに少しビビっている俺達の横をすり抜けると、その母牛達は自ら進んで搾乳台の上へと順番に上がっていった。
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