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俺の手を取って【3】

最悪の気分で目が覚めた。 現場であんなに迷惑をかけるなんて初めてだ。 みんなは『そんな時もあるよ』『たまたま体調が悪かったんだろ? 気にしない気にしない』といつも通りの笑顔を見せてくれた。 けど今の俺が、それを『気にしない』というわけにはいかない。 確かにベテラン男優と呼ばれる先輩達ですら、体調や現場の雰囲気で勃起のタイミングが合わない事は稀にある。 だから、『勃起待ち』『勃ち待ち』なんて言葉も使われるんだし、特別珍しい話じゃない。 その為だけに集められたアルバイトであればその場で『用無し』と追い出されて終わるだろうが、名前がクレジットされるクラスの男優であれば、実際それほど気にする話ではないんだろう。 ただ、俺は今までそんな事態に陥った事がない。 体調が悪かろうが女優が嫌いだろうが、『これから仕事』と考えさえすればいつでもどんな状況でも勃起できたのだ。 これは、まだキャリアの浅いうちからでも俺が一本立ちできた大きな要因の一つだと思ってる。 その俺の大切な武器でありプライドの一部が...欠けた。 今日の仕事は大丈夫だろうか? 少し心配になる。 原因にはっきりと心当たりがあるだけに、昨日と同じ事を繰り返さないと断言することはできない。 俺は日課になっているメールをその原因に送った。 『おはよ~。俺、今日は夕方から撮影です。勇輝は? 今日は時間作れる?』 送信ボタンを押してからしばらくそのまま画面を見つめていた。 バックライトが消えても、ただ黒くなった画面を見つめ続ける。 結局、携帯を握りしめている間に返事は来なかった。 諦めて冷蔵庫からヨーグルトを取り出すと、それを立ったままで無理矢理胃に流し込む。 今はどうしても食欲も気力も無く、何かをわざわざ作ろうだなんて到底思えなかった。 そのままシャワーを浴び、仕事の準備の為に髪を軽くセットする。 寝室に戻り携帯を確認したものの、やはり返事は来ていない。 忙しいのだ、気づいていないだけだ...必死にそう思い込みながらも、どこか絶望的な気持ちになる。 家にそのままいるのも嫌でさっさと服を着替えると、まだずいぶん早いのに現場へと向かった。 ********** 勇輝からメールが来ることはすっかり減ってしまった。 これまでのやりとりが嘘のようだ。 朝から俺が送ったメールへの返事は無く、夕方くらいになってようやく『今日は先輩と飲みに行きます』なんて業務連絡みたいなメールが入るだけ。 埒が明かないと電話を鳴らしても一切出てもらえない。 それでも、『着信拒否』されてない事だけが俺にとっては唯一の救いだった。 食事が思うように摂れない状態も、撮影しながら勃起できずに必ず待ちの時間が入る状態も絶賛継続中。 いや、日に日に酷くなってるのかもしれない。 マジで重症だ。 勇輝に会いたくて会いたくて泣きそうになる。 こうなったら、また共演できるように画策してやろうか...そんな事を考えながらスタジオに入ると、目の前には珍しい男が立っていた。 「えっ? 社長...どしたの?」 驚いてアホみたいな声を出した俺と目が合った途端社長は口をあんぐりと開き、すぐに怒ったような顔になり俺の腕を掴んだ。 そのままズルズルと引っ張られ、外の駐車場に停めてあった社長の車へと押し込められる。 「おめぇ...なんつう顔してんだよ!」 「ん? 何か? いつもの通り、エセ爽やかさんのつもりだけど」 ふざけてキメ顔を見せた瞬間、思いっきりグーで後頭部を殴られた。 「ちょ、ひどくない? これでも俺、これから本番控えた男優なんだけど?」 「お前しばらく...仕事休め」 「はぁ? 何よ? 俺、仕事取り上げらんないといけないくらい悪いことでもした?」 怒っていたはずの社長の顔は、いつの間にか今にも泣きだしてしまうんじゃないかってほどにクシャクシャに歪んでいた。 その表情を隠すように俯きながら、俺の頭をワシワシと撫でまくる。 「監督がな、お前の事心配して連絡くれたんだよ...お前、どっか悪いんじゃないのかって。ここんとこ急に痩せてきてるし、なんか上手く勃起もさせられないみたいだけど、大丈夫なのかって」 ああ...そんな連絡が行ってたのか。 使えないと思えばクビにすりゃあいいだけなのに、心配して連絡してくれた監督。 本業のが忙しくて俺に構ってる暇なんてないはずが、こうしてわざわざ顔を見に来てくれた社長。 なんだよ、俺って愛されてんなぁ...と妙な感慨に浸る。 「それで、どうしたよ? マジでどっか悪いのか?」 「......あのさ、俺が不治の病だとか言ったら信じる?」 「なっ...お、お前...病院は? ちゃんと検査受けたのか?」 慌てる社長の肩をポンと軽く叩き、『そうじゃない』と首を横に振る。 「あのさ、『お医者様でも草津の湯でも~』ってやつ」 「......はぁ!? あ、いや...え? お前が?」 「そう、この俺が。誰に対しても本気にならず、『来る者は拒まず去る者は追わず』の...この俺がだよ。笑っちゃうよな......」 知り合ってからの俺の下半身事情を誰よりもわかっている社長は、見事なくらいのバカ面でポカンと口を開けた。 「恋とか...お前がか。仕事に影響するくらい? いや、ありえん...」 「俺もそう思いたいとこなんだけどね。残念ながら、今はソイツの事を考えないと勃起もできないような状況ですわ」 「んで、なんでそんな事なってんだよ。その相手と上手くいってないのか?」 「上手くいくも何も、まだ付き合ってもない。完全な俺の片想いよ。おまけに、今見事に避けられてて会う事もできないっつうね」 「んで? どんな女なんだよ。女優か?」 「......男だって言ったら...どうする?」 かなりの爆弾を落としたつもりだった。 引かれるか、『諦めろ』って怒鳴られるんじゃ無いかと思っていた。 でも、予想に反して社長の顔は...なんだか『納得した』って感じで妙にスッキリとして見える。 「気持ち悪いとか思わないの?」 「思われたいのか? 残念ながら、俺はそんなキリスト教に縛られたありがたい道徳観なんざ持っちゃいねえよ。相手が男でも女でも、お前にとってほんとに大切な人間が見つかったってんなら、そりゃあめでたい事じゃねぇか。それにな、お前のこれまでの言動やら過去の事考えりゃ...打算だの契約だのがつきまとう女相手より、純粋に気持ちだけで動いてる分、男との恋愛だって方がしっくりくる」 「ったく、どんな恋愛感だよ...男のがしっくりくるとか」 「......なるほどな。んじゃ、相手はあの子だろ。最近良く出てきた、あれだ...あの...勇輝って坊やだ」 「なんで...え? マジでなんでわかった?」 社長は胸元から手帳を取り出す。 「お前なぁ...俺はこれでも一応マネージメントやってんだから、お前の仕事くらい把握してんだぞ。ほら、この日の仕事...俺らにも相談しないで直接制作にアイデア出していきなり3Pに変更した上に、わざわざパートナーにこの勇輝指名したろ。んで、この日の仕事は、お前がすげえ嫌ってる女優の相手役だったし断る事もできたのに、勇輝をパートナーに付ける事条件にオファー受けた。この話聞いた時はただ後輩として可愛がってるだけかと思ってたけどな、お前の好きな相手が男だってんならコイツしかいない」 俺の事は完全放任主義かとタカをくくってた。 スケジュールを把握してるだけじゃなく、まさかそこに至るまでの過程までわかってたとは。 「違うか?」 「......ピンポーン」 「そんで、どうすんだよ? お前今のままだと絶対倒れるし、そのうち仕事無くなるぞ」 「どうしたもんかね...俺、ほんとこんなに人を好きになったこと無いからさぁ、何をどうしたらいいんだかわかんないんだよ。誰かから避けられるなんて経験もしたことないし」 「まあ、犯罪にならん程度に押して押して、お前の本気を見せるしか無いんだろうけどなぁ...」 そう言うといきなり携帯を出し、社長がどこかへ電話をかけ始めた。 「あ、お久しぶりです。はい...いえいえ、いつもうちのみっちゃんがお世話になりまして。それでですねぇ、もうご存知だと思うんですが、実はここのところちょっと体調崩してまして...そう、そうなんですよ。現場でもご迷惑をね...はい、はい、もうほんとに申し訳ないです。それでちょっとですね、今週いっぱいみっちゃん休ませようかと思いまして...ええ、今週はそちらの会社のビデオだけなんですよ。あ、はいはい...ああ、そうですか。ありがとうございます...ええ、もうこのご恩は必ず...はい、じゃあ失礼します」 社長の言わんとするところがわかり、携帯をパチンパチンと開いたり閉じたりしながらこれからの事を考える。 「ふーっ...どうしてくれんだよ。お前のギャラ下げろって言われたじゃねえか」 「誰? 担当さん? それとも企画部の山崎さんとか?」 「社長だよ、『pinky』の」 「知り合いだったの?」 「まあな。昔スカウトマンだった頃の同僚みたいなもんだ。とりあえず、お前に今週いっぱい時間作ってやったぞ。だからなんとかしてこい。上手くいってAV辞めてもいいし、玉砕して帰ってきても構わねえ。とりあえず、そのやつれて貧乏神みたいになった顔、どうにかしてこいや」 「......ありがと。じゃ、頑張って今のモヤモヤだけでも取り除いてくるわ」 俺の言葉に満足そうに頷くと、社長の車は俺のマンションへと走り出した。

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