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未来の為に舌鼓【5】

「ここが工房です。まあ一棟なんですけどね、チーズの工房とは仕切ってあります。あっちはチーズや乳製品を出すカフェもあるんで、後でそれも味見していってください。で...コンベアで送られてきた生乳をこのタンクに入れて、ここで超低温殺菌します」 「あ、あの...すいません......」 説明に聞き入っている俺達の邪魔をして申し訳ないと思っているらしい慎吾が小さく手を上げる。 健一さんはニコッと笑って小首を傾げた。 「スーパーでも見かけるし、航生くんもお菓子作る時は敢えて低温殺菌て書いてある牛乳買うんで種類があるんは知ってるんですけど...そもそも普通の牛乳と低温殺菌牛乳って何が違うんでしょう? 値段がだいぶ違うんは理解してるんですけど」 「そうですねぇ......」 どう説明するか言葉を選んでるんだろうか? 生乳を撹拌している機械をチェックしながらフゥとため息をつく。 思わず口を挟みそうになった所を充彦に止められる。 「ここはプロに任せろ」 「......あ、そうか」 つい航生にも慎吾にも過保護になりがちな俺達。 何でもかんでも自分達で教えてやりたくなるのは悪い癖だ。 今日はプロの仕事を見せてもらい、プロの話を聞きに来ているのに、ちょっと詳しいだけのアマチュアがいらない事を言うべきじゃない。 それがわかってるから慎吾は俺にコッソリ聞いたりせず、きちんと手を上げて『健一さん』に質問したんだ。 「俺も先輩としてもっと成長しなきゃ...」 「お前がこれ以上成長したら、俺では手に余るようになっちゃうねぇ...いいんだよ、今のままで。俺はたぶんこれから厳しくなっていくだろうからさ、その分お前が甘やかしてやって」 「発言が完全にお父さんじゃん」 「よろしくな、勇輝ママ」 クスクスと小声で笑い合っていると、健一さんがポケットからメモ用紙を取り出し何やら書き始めた。 みんなでその手元を覗き込む。 「細かい種別は他にもあるんですが、牛乳は殺菌方法で主に三種類に分かれます。超高温、高温、そして低温殺菌です。生乳は栄養価が豊富な分、搾乳直後から雑菌が増えていきます。無菌の工場で搾乳するというわけにはいきませんから、これは製品を作る上で必ず起こる事です。この雑菌の増殖を抑える為に熱殺菌という工程が必要なんですね。まず一般的に売られている牛乳は、120から130℃の超高温状態の中で2秒程度加熱する事で殺菌する『超高温殺菌』が殆どです。乳成分の中のタンパク質に変質は起きますがかなりの雑菌が死滅するので日持ちが良くなります。搾乳地とは違う場所に運び一気に加工する為にはどうしてもこの方法が一番安全安心な牛乳が提供できますから、一般のスーパーに並ぶ商品は必然的に超高温殺菌牛乳が主になります。高温殺菌は75℃前後の状態で15秒程度殺菌を行います。時間は少しかかるので大量生産はまだ少し難しいんですが、低温殺菌に比べると加熱時間が短い事で含まれているビタミンの変質が防げると最近増えてきている方法です。そして......」 健一さんが、決して大きいとはいえない機械をポンポンと叩いた。 「うちが拘ってるのが、この低温殺菌という方法です。タンパク質の変質が起こる温度が65℃以上なので、この機械では温度を63℃にキープして30分から40分かけて殺菌しています」 「え? そない時間かけてるんですか!? なるほど、そら大量生産は無理ですね......」 「時間の問題以外にも大量生産できない理由があるんです。低温殺菌は超高温に比べれば殺菌は不十分とも言えます。完全に近い状態まで殺菌する事は不可能ですので、まず雑菌の混入を最小限に抑えなければいけません。つまり、搾乳から加工を最短で行える環境を作らなくてはいけない...牧場のすぐ隣に巨大で近代的な加工工場を作るなんてのは、運搬などを考えてもやはり現実的ではないんですね。ですから、低温殺菌牛乳は小規模な工場やうちのような手作りの工房でないと生産は難しいんです」 「えっと...時間もかかるし、温度管理も大変そうですよね? それでも低温殺菌に拘る理由って何なんでしょう? 栄養価には大差無いんですよね?」 「ものすごく極端な例を出してしまうと、生卵と茹で卵は極端に栄養価は変わらないけど、食感や味は全く違いますよね? そんな感じです。卵ほどわかりやすくはないけど、やはり加熱でタンパク質に変化が起きて、喉ごしや舌触り、そして何より香りが大きく変わります。せっかく生乳に限りなく近い物を作れる環境にあるのだから、消費者の方にも本物の牛乳を味わってもらいたいという医事にも近い拘りですね。それに何より、タンパク質が変質しないという事は、この牛乳を使った加工食品の味がまるっきり違うという事なんです」 「これはさ...慎吾くんも食べたからわかるんじゃないの?」 「チーズに限らず、バターもパンも全然味違ってたろ?」 あの朝飯を思い出したのか、慎吾はフニャンと蕩けそうな顔をしながら頬を押さえる。 「あ~、あれはほんまに美味かったぁ...クロワッサンもブッファラもミルクジャムも最高......」 「あの味を作るには、ここの牛乳が必要って事だよ」 「問題は...その低温殺菌ってとこなんだよな......」 充彦の頭の中には現実的な問題が早速ポツポツと浮かび始めてるらしい。 眉間にはうっすらと皺が寄っている。 いい事だと思う...ただ夢を夢として追いかけているだけでなく、現実の物として掴もうとしている証拠だ。 だからその問題点を一つずつクリアしていけば、その先には必ず成功が待っている。 充彦の言う『問題』の意味が健一さんにはハッキリと理解できているらしい。 改めて機械を確認すると、俺達にクルリと背を向ける。 「ここからは、カフェの方で弟も交えて話しましょうか。航生くんのチーズ作りもちょっと気になるでしょう?」 表に出ると、健一さんはさっさと長靴を脱ぐ。 俺達も靴を履き替え、棟続きの工房兼カフェへと向かった。

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