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前を向け【2】
狭い階段をゆっくりと上がれば、すぐに目的の階に到着する。
俺は綺麗とは言い難いドアの隣に設置されている黒いボックスに人差し指を押し当てた。
この事務所、建物こそ古くてボロっちい普通の雑居ビルだが、ところがどっこい、実は中には最新の防犯設備があれやこれや整っていたりする。
うちの会社は、俺達の所属してる芸能部はまあほんの片手間みたいなもんだ。
キャバクラに抜きキャバにピンサロにマッサージ、ついでに派遣型風俗店...いわゆる『デリヘル』なんてのを手広く経営する、超大手ピンク系運営会社が本業だったりする。
ヤクザの息がかかる事もなく、また銀行からの借り入れもない超優良?企業の本部事務所の中には、運転資金として常にとんでもない額の現金がプールされてるらしい。
ずいぶん昔にはヤクザからの依頼を受けた半グレ集団に襲撃された事もあったそうだ。
それで、いつどこからその現金を狙う輩が現れるかわからない...という理由で、現在入り口には超高解析監視カメラと防弾にも使えるという特殊なシャッターを設置、2階の事務所入り口にはなんと『指紋認証システム』なる物を導入していた。
俺は入った事はないけれど、現金が実際に保管してある出納室には、網膜と静脈による個人認証のシステムまであるらしい。
しかしまあ、これが充彦言うところの『変人社長』たる由縁でもある。
そもそも強固な防犯システムってのは、それに見合うだけの分厚い壁だとか、頑丈な扉に付けてこそ意味があるんじゃないのか?
最新の万全な構造で守られた場所に取り付けられるからこそ、それは効力を発揮するんじゃないか?
しかしこの建物の壁なら、俺が力一杯蹴飛ばせば穴くらいは開けられそうだ。
扉だって、ごく普通のちょっと錆びた蝶番で止められてるだけだから、充彦ほどの力があれば、無理矢理引きちぎれるんじゃないかと思う。
窓にしたって、外から見る限り特に変わった所の無いのアルミサッシだから、『エイッ』と石でも投げ込めば簡単に割ることもできるだろう。
結局、どこもかしこも無防備。
要は本気で防犯なんて考えてないわけだ。
たぶん最新の防犯グッズを設置すること自体が目的で、現金がどうのって理由は後付けなんだろう。
なんのことはない。
ただのマニアなのだ。
それも、半端じゃないレベルで金を持ってて、こんなくだらない事に真剣に投資できるレベルのディープなマニア。
ほんとここの社長って変人だ...。
俺の指紋を認証したことで、来客を知らせるチャイムが鳴ったらしい。
『どなたですかぁ?』
インターホンから聞こえる、ちょっと間の抜けた声。
事務所唯一の女性である、経理の川島さんだ。
指紋確認してんだから誰なのかはわかるだろうよ...そんな悪態は飲み込んで、どうにか無理矢理作った笑顔でモニターを覗き込む。
「あけましておめでとうございま~す。勇輝とみっちゃんで~す。いきなり『来い』とかって社長に呼ばれたんですけど~」
そう言うと、電子ロックが解除...ではなく、ガチャガチャと内鍵のシリンダーが回される音が響いた。
「相変わらず、意味のわかんない指紋認証だよな...」
結局、俺がずっと我慢していた言葉は、呆れたような顔の充彦が先に吐き出す。
まったくだ...と頷き、俺達は少し分厚いだけでいたって普通のドアを抜けた。
今日はさすがに三が日という事もあるせいか、事務所内に人は少ない。
川島さんは確か俺と同い年だと聞いてるんだけど、いかにもギャル上がりって容姿。
なんでも、大学に通いながらこの会社が経営しているメンズエステで働いている所を、社長自らスカウトして経理に引っ張ってきたらしい。
この見た目にフニャフニャとした雰囲気ながら、実は相当な切れ者って噂だ。
部屋の隅でムスーッとしてる仏像みたいなおじさんは法律関係のスペシャリストらしいし、携帯を持って壁に向かって怒鳴りまくってる超男前のチンピラもどきは、用心棒を兼ねた営業とのこと。
普段なら他にも、他人とコミュニケーションを取るのが恐ろしく苦手な天才SEだとか、個人的な趣味丸出しって感じのレズビアンの性的な教育係とか、前職も現職もよくわからないけど明らかに裏社会の匂いがプンプンする集団とか、ほんとこの会社って怪しい人間だらけ。
もしかして社長の求める採用基準て『強烈なキャラクター』なんじゃないだろうか。
ほら、なんせ本人が『変人』で『変態』だし。
暇と金をもて余してるって話だし。
勿論そのキャラクターにプラスして、それぞれ突出した能力を持ってるのは当たり前だけど。
川島さんの案内で、俺達は奥の応接室に通される。
「じゃあ、社長呼んできますね~。コーヒーと紅茶と緑茶、何飲みますぅ?」
「バナナジュースとキャラメルラテ」
あまりに間抜けな砕けた口調に、ちょっとした嫌がらせをしてやる。
ま、どうせ痛くも痒くもないだろうけど。
『はいは~い』と案の定なんとも思ってないような口調で、川島さんは腰をくねらせながら部屋を出た。
こんな調子なら、もし俺が素直に『紅茶』って頼んでもコーヒーが出てきそうだなと鼻の頭を掻く。
充彦も、なんだか複雑そうな顔をしていた。
「充彦...俺ねぇ、この会社のスタッフ見てたら、解雇だけは無いような気がしてきた」
「俺も~。『バイセクシャルで、男の恋人の存在をカミングアウトしてるアイドルAV男優』と、『恋人が好き過ぎて本番できなくなっちゃった元アイドルAV男優』なんて超面白いキャラクター、あの社長が手放すわけがないよな」
喜ぶべきか悲しむべきか。
とりあえず、変に張りつめていた俺の気持ちが一気に解れて落ち着いた事だけは間違いない。
「だとしたら...マジで俺らが呼ばれた理由ってなんなんだ?」
そして結局、疑問は最初に戻る。
それほど経ってはいないはずなのに、ソファに腰を下ろしてどれほど時間が経ったのかと、俺は何度も腕時計をチラチラと窺った。
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