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前を向け【4】
「こんの...クソジジイ......」
顔色が悪くなり、言葉の出せなくなった充彦に代わって、俺が社長を睨み付けながら目の前のテーブルを蹴飛ばす。
「充彦は用済みだって言うのかよ! 本番しない男優はもういらないってか! これまで充彦に散々美味しい思いさせてもらったくせに!」
「おいおい、落ち着けって。話ちゃんと聞けよ...」
「うるせぇ! 何がグラビアだ、写真集だ。誰がお前の言う通りになんて動いてやるか、ふざけんな! 上等だ、今すぐこんな事務所も仕事も辞めてやるよ!」
「いいから聞けっつってんだろうが、このクソガキが!」
俺の啖呵なんて比べ物にならない程の大声と迫力で、社長もガツッとテーブルを蹴り返してきた。
それでも、完全に頭に血が上ってる俺がそんなものにビビるはずもない。
なんならぶん殴ってやろうかと立ち上がった瞬間、ひどく震える大きな手が俺の手に重ねられた。
「社長、長い間お世話になりました...本当に...本当に俺を生かしてくれて...ありがとうございました...。あなたのおかげで俺は...勇輝という存在に出会えました...だからもう、ちゃんと生きていけます、もう死んでも構わないなんて...思いません。本当にありがとう...ございました。どうかこれからも勇輝を...お願いします...」
「おいおい、待てってば。お前まで早合点すんなよぉ。俺が充彦切るような真似するわけないだろうが...な? 頼むからちゃんと話聞いてくれって」
頭を下げたまま肩を震わせている充彦を見るに至って、社長はひどく慌てだした。
「お前ら、ほんと先走るなって。俺は充彦にAV引退しろっつっただけで、うちの事務所辞めろなんて一言も言ってねぇだろうよ」
「はぁ? 意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ。じゃあ契約で縛り付けて、俺らを飼い殺しにでもするつもりか!」
社長が、はぁ...と大きなため息をつき『参ったな』と頭を掻く。
何やら落ち着かない様子で胸のポケットに手をやり、それを振りきるようにイライラした様子でテーブルをカツカツ叩いた。
あれ?
そう言えば社長、今日はタバコ吸ってないな...。
以前事務所に来た時は、少し話をしているうちにすぐに灰皿が一杯になり、途中で何度か川島さんがそれを取り換えにきたはずだ。
チェーンスモーカーと言っても間違いないくらいのヘビースモーカーだったのに。
考えてみると、部屋の中に灰皿すらない。
興奮して話も聞けない俺達に焦れたのか、社長はテーブルの上に何かを投げつけてきた。
それは...製菓学校のパンフレット?
「今年中にAVだけでも辞めりゃ、春の入学までには十分準備整えられんだろ」
「...え? いや、あの...意味が...よく...わかりません...」
おそるおそるという風に顔を上げた充彦の頬は、予想通り涙で濡れてキラキラしていた。
それを見た瞬間また頭の中で何かがブチッと切れたが、さすがに今は口を挟むわけにいかないとグッと唇を噛む。
「あのな、今回のグラビアと写真集の契約金で、うちにもお前らにもそれなりにまとまった金が入る事になる。今回は向こうに無理をお願いして、撮影料契約じゃなくて印税契約にしてもらったんだよ。それならここからのお前らの頑張り次第で入ってくる金額が大幅に増やせんだろ。だからな...その金でお前、学校入り直せ」
充彦はそのパンフレットを手に取るとパラパラと捲り、首を小さく振りながらそれを元に戻した。
「でも、もう今更...」
「お前よぉ、いつまでこんな中途半端な状態で燻ってるつもりだ?」
「燻ってるなんて、俺はそんな...」
「前よりはずっと暇とはいえ、それでも適当なペースで撮影が入るから他の仕事するってわけにもいかねぇ。なんだかんだ時間をもて余してるせいで、結局は勇輝のマネージャーみたいな事ばっかりしてる。お前くらい顔も頭もイイ男がこのまんまなんてよぉ、ちょっともったいなすぎんだろうが」
ズキと胸が疼く。
それは俺もずっと思ってる事だった。
早くスッパリこの世界から足を洗って、元々目指していたパティシエの世界に向かって欲しいと。
今現在、部屋以外には特別贅沢はしてないつもりだ。
洋服にも家具にもたいして拘りは無いし、ありがたい事に旅行なんて行ってる暇は無い。
強いて言うなら二人とも食い道楽だから食費は多少かかっているかもしれないが、それでも他の事には大して使わないのだから、トータルにすれば同年代の男性の出費とそう変わらないだろう。
コツコツと金を貯め、今すぐに充彦が専門学校に通えるくらいの蓄えなら十分にある。
生活費は俺が稼ぐから、充彦は心配しないで学校に通えって話も何度となくしてきた。
でも、充彦は頑として首を縦には振らなかった。
俺一人に金銭的な負担を押し付けたくないだの、もう夢は諦めただの...そのたびに理由をつけて。
「うちにはお前ら以外にも一応女優も男優も所属してる。そいつらは全員、お前らとおんなじで、社員扱いじゃなく『個人経営者との業務委託』って契約だ。それはわかるか?」
「それはわかってますけど...それが何か?」
「正社員ならよ、月給からの天引きの形で雇用保険だの退職金だの、辞めた後の為のフォローもしてやれるんだけどな、お前らは一本の仕事してなんぼの出来高で、うちは仕事を仲介してマージンもらってる形取ってる。つまりな、今の形態じゃ俺は表立ってお前に何にもしてやれねぇんだよ」
社長の言いたい事が、ようやくゆっくりゆっくりと頭に入ってくる。
それは充彦も同じだったようで、社長の目を真っ直ぐに見ながらゴクリと唾を飲んだ。
「他の役者の手前な、いくら俺が一番大切にしてるからって充彦にだけ特別に金を出してやるってわけにはいかねぇ...その金に理由が無きゃな。だから今回の写真集の印税が、お前の退職金の代わりだと思って欲しいんだ。所属契約を解除するつもりはさらさら無いから、今の部屋にも今まで通り住んでてくれて構わねぇ。学校の空いた時間にだけできるようなグラビアくらいなら受けるつもりだが、自分に仕事が無いのが不安だってんなら正式にアルバイトとしてうちの事務手伝ってくれてもいい。とにかく、今回の金があれば、お前らの貯金切り崩さなくても学校に通う費用にくらいはなるはずだ」
「そんな...どうして...なんでそこまで俺に......」
俺達はただ社長の口から出てくる言葉に驚き、お互いの顔と手元のパンフレットをチラチラと交互に見て目を丸くすることしかできなかった。
「どうして? ああ、どうしてってか...」
社長はいつもの強面を少しだけ崩し、何か懐かしい物を見るような目を充彦に向ける。
充彦も同じような表情でその目を見つめ返した。
「充彦は俺に生かしてもらった...みたいな言い方してたけどよ、でも俺の方こそ充彦にはほんと感謝してる。仲間の裏切りで金も仕事も無くなってた俺の前にな、ほら、いきなりボロッボロになったお前が現れたじゃないか。『死にたい』だの『誰も信じない』だの言いながら、それでもやっぱり人を信用したくてポロポロ涙溢す姿見てたらな、俺は『絶対にコイツ守ってやる』って思ったんだよ。絶対に死なせねえし、もう一回必ず成功して、お前に旨いモン食わせて『生きてて良かった』って言わせてやんなきゃいけねえって。俺は堅気の仕事なんて知らなかったからな、結果お前をこっちの世界に引きずり込んじまうことになっちまって、それはほんとに悪かったって思ってる...それでもお前にもう一回夢見させてやるんだって気持ちで、そりゃあ俺なりには必死だったんだよ」
「俺の方こそ感謝してます。あの頃は本当に死んでも構わないって思ってたし、社長に拾ってもらわなかったら、たぶん本当にあの場で死んでた。何よりこの世界に入らなかったら...こうやって心から大切に思える人間には出会えなかったんですし」
充彦の手が、俺の手をグッと握る。
簡単には聞いていた充彦の過去と社長との関わり。
それは俺が知っている以上に暗く長く、そして深い物らしい。
「だからな、昔お前に約束したじゃねえか、『必ずもう一回、俺が夢追いかけさせてやる』って。それが丁度今だと思ったんだよ」
「でも、それがなんで今なんですか? 写真集の話が来たから?」
「まあ、勿論それもある。でも...それだけじゃない」
「じゃあ、他にも理由が?」
充彦のその問いに、社長の顔が一気に赤く染まった。
視線が定まらなくなり、しきりに唇を触る。
「社長?」
「......うちがやってる、法律的にグレーゾーンの仕事あんだろ。個室マッサージとかデリヘルとか。ああいうのからな、撤退することにした...」
今の俺達の話と、風俗業からの撤退。
それになんの関係があるんだろう?
話の行方が見えず、勝手に首が傾く。
それでもそれを俺達に話すのには何かわけがあるのだろう。
一度充彦の様子を窺い、俺は口をつぐんだ。
「別に、金が無くなったとか採算が合わないとか、そんなんじゃねぇぞ。どの店もみんなが頑張ってくれてるおかげで、先月も売り上げ絶好調だったしな」
「そりゃあ、他所の店よりも断然キャストの取り分多いですもん。みんなやる気にもなりますって」
「えっ、そうなの?」
俺の素っ頓狂な声に充彦はニコリと笑った。
「俺、一時期デリヘルの仕事手伝ってた事あってね、その時に色々細かく教えてもらった。無断欠勤とか遅刻とか、あと本番禁止とかってルール破った時にはすごい罰金厳しいんだよ。でも普通の店だとせいぜい折半でしかもらえない個人の売り上げが、うちだと7割あるんだ。おまけに延長とか指名については全額本人の取り分になるからさ、頑張ったら頑張っただけ稼げるってシステムなんだよ。キャストの女の子とか言ってた、一人の客に誠心誠意楽しんでもらおうって思えるって。ほんとに楽しんでもらえたら、また指名もらえるかもしれないって一生懸命になれるって」
「そう...なんだ。ちょっと意外...」
守銭奴で、搾れるとこから目一杯搾り取るから金があるのかと思ってた。
少しでも人件費ケチって上まえ跳ねて儲けてるんだと。
そうじゃなかったのか。
会社の取り分減らしてでも嬢にガンガン稼がせてやる気を起こさせ、そのやる気にリピーターが増えていくからこそ利益が上がってたんだ。
「そりゃあ儲かってる。儲かってはいるんだがな、その...法律的に危うい仕事は...したくなくなったんだよ...人の親になるし...」
ん?
社長、今何言った?
充彦に尋ねようと隣を見ると、充彦も不思議そうな顔をしている。
社長は、一度大きく息を吐き出すと、パンッと頬を叩いて背筋を伸ばした。
「ガキができたんだよ...瑶子の腹ん中に...」
「瑶子って?」
「なんだよ!? お前ら、もしかして名前知らなかったのか? さっきジュース持ってきただろうが」
「......経理の?」
「川島さん!?」
マジか!
このイイ年したオッサンと、あのギャル上がりが?
俄には信じられなくてボケーッと口を開けたままにしていると、真っ赤になった社長が続けた。
「ガキが大きくなった時にな、それなりに胸張って親の仕事についてとか話してもらいてぇって思ったんだ。いや、別にみんなの仕事が恥ずかしいってんじゃねえし、風俗も水商売も世の中には必要な仕事だとも思ってる。けどな...小さな子供に説明できる仕事じゃねえし、何もそんな店を経営してるのが俺である必要はないわけよ」
ああ...もしかして、それでタバコを止めたのか。
あれほど吸っていたタバコをすっぱり止められるほど、この人は子供を授かった事が嬉しいんだ。
子供の為に、好調な事業からの撤退を考えてしまうくらいに。
「勿論今すぐじゃねぇ。店の子を路頭に迷わせたくないしな。来年を目処にみんなには話をするつもりだ。働きながら資格なんかの勉強するって奴には就学補助金出すし、うちで今後展開していく事業に興味があるならその為の勉強させた上で正社員として雇ってやる。今の仕事続けたいって子には、うちと同等かそれ以上の条件で働ける店を斡旋してやるつもりだ。まあ、うちの風俗部門は丸々柳沢に譲渡の形取る事になるだろうから、そのまま働いてもらってもいいしな。んで、7年以内に...子供が小学校に入るまでには、風俗と水商売からは完全撤退だ」
オッサン、本気だ。
自分が面倒見てきた子達の事も、決して見捨てるつもりなんてない。
着いてきたい人間にはその為の機会を与えてやり、離れる事を選択する人間にはきちんと花道を用意してやる。
じゃあ、充彦の退職金代わりの印税は...どっちだ?
チャンスか?
花道か?
俺は...俺はこの人から離れたくない。
離れちゃいけないと思う。
きっとこの人は、どこまで行っても絶対に俺達の味方でいてくれる人だ...いや、俺達に限らず、慕う人間すべての。
充彦はどう考えてる?
お前は社長の言葉をどう取る?
何か考える所があったのか、充彦がフッと笑みを浮かべた。
「なるほど...今後の新しい事業計画に、俺を真っ先に巻き込むつもりなわけですね」
ん?
今の会話の流れの中にそんな言葉出てきたか?
わけのわからない俺をおいてけぼりにして、社長は嬉しそうに歯を見せた。
「さすがは俺の充彦。よくわかってんな」
「『俺の』はやめてくださいね。いいですよ。学校出て修業終わらせて、自分が使い物になる目処が立ち次第...必ず社長のとこに戻ります」
「おう、頼むぜ。まあ、話はそんだけだ。時間取らせて悪かったな。写真の撮影スケジュールなんかは、後から家のパソコンに送らせるから」
「はい、お疲れさまです。メール確認したらまた連絡入れますんで。おい、勇輝...行くぞ」
会話の内容に着いていけないでいる俺の腕が引き上げられる。
どうやら充彦は本当に帰るつもりらしく、俺を立たせると何も言わないままで出口へと向かった。
「あ、社長...」
「ん?」
「今度お祝いにケーキ焼いて届けましょうか? 川島さんの好みもメールに添えといてください」
「おう、サンキュ。でも『川島さん』じゃなくて、『野中さん』な。もうとっくに入籍済みだ」
「はいはい。とりあえず瑶子さんによろしく~。勇輝、行こう」
俺は少しだけ頭を下げて辛うじて挨拶をすると、ニコニコ嬉しそうに口許を弛ませて事務所を出ていく充彦の後を慌てて追いかけた。
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