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前を向け【5】
歩いている間も電車に揺られながらも、充彦はニコニコと笑みを崩さなかった。
俺が事務所での会話の意味を尋ねても、『う~ん』とか『まあまあ』なんてはぐらかそうとする。
ぼちぼち焦れた俺の目付きが変わりだした事に気づいたのか、ポンポンと頭を撫でて『家でな?』って、それはそれは嬉しそうに笑った。
改札を抜けても充彦の謎の上機嫌は相変わらずで、人前だってのに俺の手を握りしめてきたりして。
まあ、俺は別に人の目は気にしないっつうか...どっちかって言えば嬉しいっつうか...とりあえず嫌じゃなかったからそのまま素直に手を繋いで歩く。
気付けば、目の前には家に向かう道ともスーパーに続く道とも違う狭い路地。
普段は通る事のないその脇道に、至極当たり前のように入っていく。
どこに向かうつもりなのか...更に疑問が増えそうになるものの、こちらのクエスチョンはすぐに解決した。
小さな古着屋や個性的なアジア雑貨の店の並びが目に入り、ここが以前二度ほど充彦に連れられて通った事のある小路だと思い出す。
予想通りの場所に向かっているのだとすればそれは...単純に嬉しい。
以前、心から嬉しい事があった時にだけ行くのだと説明されたその場所。
ワクワクする。
想像の通りならいいと思う。
さっきの二人の会話の意味はまだよくわからないけれど、それが充彦にとって『心から嬉しい事』だったのなら、今は別に意味なんてわからなくてもいい。
三が日という事でシャッターを下ろしている店も多い中、人同士がスレ違うのがやっとのような所をゆっくりと進み、何度か角を曲がる。
その先の袋小路になった店の前には、『輸入製菓材料専門店』の看板と『OPEN』とチョークで書かれた小さな黒板が飾ってあった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ホントにフロランタンで良かったのか? なんならもうちょっと凝った物言ってくれても良かったのに」
充彦はそんな事をいいながら、それでも楽しそうにボールの中身をゴムべらで丁寧に混ぜ合わせる。
「俺、充彦の作るフロランタン、すんげえ好き。つうか、焼き菓子? それ、全部好き」
「はいはい、どうも。そんな風に言われると、俺の作るカスタードクリームは旨くないのかよ!とかツッコミたくなっちゃうけどね~」
「んなことは言ってないだろ! じゃあ今度はシュークリーム作って。あと、ミルクレープにザッハトルテだろ...モンブランにカヌレ、ズコットに...バームクーヘン!」
「アホか。バームクーヘンはさすがに面倒」
とりあえず適当なケーキの名前を並べる俺のデコを、充彦がピンと中指で弾いてくる。
どうしよう...社長との会話の意味を知りたい、一刻も早く。
でも、今こんなに嬉しそうで楽しそうに作業をこなしている充彦の気持ちを削いでしまう事にはならないだろうか?
てきぱきと動く充彦の手元をじっと見ながら、俺の頭はグルグルと回る。
準備が終わったのか、オーブンの天板に手際よくクッキングシートを敷き、出来上がったばかりの生地をそこに流していく。
全部を入れ終え、温めておいたオーブンにそれを放り込むと、ご機嫌な表情は崩さないまま充彦は俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「さて...と。たいそうお待たせいたしました。んで、何聞きたい? 俺と社長の事? それとも俺の昔? 最後の会話の意味? どれから話そうか」
『何でも聞いていいよ』とカウンターに肘をつく。
さて、俺は今何を聞くべきなんだろう。
社長と知り合った当時の話も、充彦がこれほど好きなお菓子作りを一時は諦めてしまった理由も、そりゃあ気になる。
ま、当たり前っちゃあ当たり前でしょ。
だけどこの二つは、過去の話だ。
俺が今聞いたところでその知らない過去に割り込んでいけるわけじゃないし、その事で俺の何かが変わるわけでもない。
いつか時期がくれば...例えば、過去を振り返って懐かしむような時がくるとするならば...俺がわざわざ尋ねなくても、その時はおそらく充彦が自ら話をするだろう。
俺が今知るべきは未来だ。
充彦の未来に俺が一緒にいる事を許されるのなら、それだけが今知らなければいけない話だろう。
「社長との最後の会話の意味だけでいい。他は...うん、今のところ俺には関係ない話だから」
「...ふふっ、そうか。じゃあ...さっきの話と、これからの話をしよう」
俺の前には少し濃いカフェオレを。
そして自分の前には桃の香りが付いた紅茶を置き、充彦はオーブンを気にしながらカウンタースツールに腰を下ろした。
「まずね、社長が俺にAVを引退して製菓学校に行くようにって言ったのは、俺の為半分、会社の為半分...てとこかな」
なんてことないみたいな笑顔でサラリと言われたが、それでもよくわからない。
カフェオレに一度口を付けたきり言葉の出ない俺の態度でそれがわかったのか、『コホン』とわざとらしい咳払いと共に充彦は少しニヤけた笑いを引っ込めた。
「あの時社長が話した内容、覚えてる?」
「あの時って...7年以内に風俗からの完全撤退?」
「そのちょっと前かなぁ。新しく始める事業に興味があるなら、その為の勉強させてやるってやつ」
「ああ、会社の金で勉強させた上で正社員として雇うって話な......あれ?」
これから早速、勉強の為に今の仕事辞めさせられるってやつがいるよな...今、俺の目の前に。
それも、普段の俺達の稼ぎとは比べ物になんないような破格のギャラが発生するデカイ仕事を貰った上で。
言ってみれば臨時ボーナスもらうようなもんで、その突然降って湧いてきたような大金で学校に通えって...言われたんだよな。
「わかった?」
「完璧にじゃないけど、なんかちょっと...繋がってきたかも」
「じゃあ、その繋がった話で正解だと思うよ。風俗系の店を譲渡・閉鎖することにした。じゃあその後の会社の基盤になる新しい事業をどうしようかって考える。いくつか新しい事業案を挙げてみた中に、たぶん本格的なパティスリーが候補として入ってたんだろうな...あの人、あんな顔して超甘党だし。趣味と実益兼ねられるんじゃないの?くらいの感覚で。まあ、その段階でどの程度の具体案が出たかまではわからないけど、どんな仕事を始めるにしても軸になるスペシャリストがいなけりゃ事業としての成功は見込めない。それが水商売とか風俗なら、まずは素人でも何でも人さえ集めれば格好はつくんだけどな」
「んで、まずは手始めに、充彦がその軸になるスペシャリストにって事?」
「そういうこと。まあ最初のうちは『会社が金は出してやるから学校通え』って言うつもりだったんじゃないかな? でも、俺の性格からして『自分の夢の為に会社の金を使うわけにいかない。学校へは、いつになってもいいから自力で通う』って断るだろ。んで結局は仕事の辞め時を見失って、きっといつまでも...今のままだったと思う」
だろうね。
俺も今まで何回も断られてるもん、『お前一人の稼ぎに頼るわけにはいかない』って。
「そこに、破格のギャラが発生する写真集の話が持ち上がった。社長からしたらこのタイミングしか無いって考えたんだろう。『辞める為の手土産をやる。それをどう使うかは自由だが、これからも自分と一緒に仕事する気持ちがあるならその手土産の使い道は一つしか無い』って俺に迫るのには」
「社長のその考えは正解だったんだよね? だからお前は、『修業が終わったら戻る』って言ったんだ」
「まあね。どっちにしろ俺にはあの人以外の人間と一緒に商売するつもりも、あの人以外の人間に使われる気も無いから。あの人がパティスリーやりたいんだってんなら...ここは俺が動くしかないでしょ」
社長は新規事業の為の中心人物を確保できる。
充彦は長年の夢だった洋菓子職人としての道を歩む事ができる。
何もかも万々歳...だよな?
これは、喜ぶべき事なんだよ...な?
「ん? まだなんか納得いかない?」
「なんで?」
「そうだなぁ...なんかそんな顔に見えたから」
「いや、別に納得いかないとかそんなんじゃなくて、そうだなぁ...嫉妬って感じ? うん、たぶん嫉妬だな...」
「嫉妬? 何に?」
「社長と充彦の絆ってやつ? 社長はさ、わざわざ命令しなくても自分の気持ちは伝わるし、絶対に充彦は着いてくるって自信があったわけじゃない。充彦は充彦で、社長以外とは一緒に商売するつもり無いとか言って、細かい話とか聞かなくてもあの人の意図とか全部理解しちゃっててさ...なんか、お互いの信頼感とか思い入れが強すぎて入っていけない感じ。 てか、俺ってお邪魔虫的な?」
こんな事、言っても思っても仕方ないっていうのはわかってる。
でもやっぱり二人の関係を間近で見れば見るほど絆は深くて、強くて...
俺には、そんな風に繋がってくれてる人なんていない。
繋がろうとしてくれた人達を裏切るみたいに姿を消したんだから当たり前だけど。
でもそれは、俺なんかと繋がろうと思ってくれた人達を守る為だったから仕方ないんだけど。
言葉なんてなくても自然と通じ合える関係は、やっぱり悔しくて羨ましくて、そして眩しい。
「アハハッ、ごめんごめん。嫉妬とか、俺わけのわかんないこと言ってるわ。気にしないで」
「俺には勇輝が一番だから」
中身を飲み終えたらしいカップをシンクに置き、充彦が俺の方へとやってくる。
手の中に収まったままですっかり冷めたコーヒーの揺れるカップをカウンターに乗せると、そのまま抱き寄せられた。
「勇輝って存在ができたから、俺は前を向くことができるようになったんだよ。毎日こんなに楽しいと思えるのも、飯がすげえ旨いって感じるのも、俺ら二人で一緒にいるから。わかる? もし隣に勇輝がいなかったらさ、例え写真集云々の企画が上がってたとしても、社長今回の話は切り出せてないんじゃないかなぁ...だってね、『将来』を考えるからみんな必死に勉強したり努力するんだろ? 歯食いしばって頑張るんだろ? お前がいなかった頃の俺は、何やっても何となく遣り過ごせればいいやとしか思わなかったし、勿論夢なんて物も持ってなかったから...そんな俺が将来の話なんて、聞く耳持つはずも無いだろ」
「......充彦の未来にさ、俺はいてもいいのかな? 邪魔になんない?」
「おいおい、いなきゃダメだろうよ。勇輝との未来の為に俺は新しい道に進むんだから。俺の未来は勇輝無しじゃ考えらんない。それがわかってるからこそ、社長は俺だけじゃなくてお前も今日の話に呼んだんだろ。俺の未来は勇輝の未来でもあるって考えたから。つかお前なぁ、今更過ぎだっつうの。こんだけ俺をメロメロにしといて、今頃そんな事で悩んだりすんなよぉ。お前が離れたいとか言っても、俺が絶対離れるなんてできないもん」
俺を抱き締める腕に力が入る。
ずっとこの腕の中にいてもいいのかな...やっぱりそんなことをちょっとだけ考えてしまう。
でも、俺が傍にいる事で充彦が前を向けるって言うんなら...俺を必要だと言ってくれるなら...許される間は隣で並んで歩いていたい。
腕の力強さと温もりに気持ちがゆっくりと落ち着き始める頃には、部屋の中には香ばしいキャラメルの香りが満ちてきた。
「もうそろそろ焼き上がるんじゃね?」
「俺は今、フロランタンよりも勇輝が食いたい」
「そうしたいのはやまやまですが、先にメールチェックしないと」
事務所を去り際に言われた事を思い出したのか、充彦は『チッ』と舌打ちをしながら腕の力を弛める。
心地よい温もりからスルリと抜け出し、俺はパソコンの電源を入れてメールボックスを開いた。
「来てる来てる、社長から。とりあえず雑誌の方の撮影は、来週の土日だって。んで、終わらなかった時の為に翌週の日曜も予備日で仕事空けとくってさ」
「ふーん...」
さして興味無さそうな生返事だけしてくる充彦。
もうすっかり意識はオーブンの中に集中してるらしい。
「ウゲッ、俺の仕事めっちゃ減らされてるじゃん...体調と肌質を整える為? うわぁ...マジかよ...」
「そうなの!? 新年早々10現場くらい連チャンで入ってなかったっけ? 休み全然無いってビックリしてたんだけど」
「とりあえずね、3Pと乱交は全部外されてる。1対1の撮影が2本だけだわ...なんか不安になるレベルで少ないんですけど」
「まあいいじゃん、年末は結構働きづめだったんだし。実際さ、連続で何本分も撮影したらザーメン浴びるわ風呂入り過ぎるわで肌荒れるんだから、本格的な写真撮るなら仕方ないんじゃない?」
「あらぁ、充彦さんたらよくご存知ですこと」
「やぁねぇ、アタクシもかつては一日3本現場掛け持ちなんて無茶をやってたんですのよ、オホホホッ」
「そうでしたわね、オホホホッ...って、なんだこりゃ、気色悪ぃ。あ、社長からのお菓子のリクエストも来てるぞ~」
焼き上がったのか、オーブンから天板を出している充彦に声をかける。
「川島さん...じゃねえわ、瑶子さん、何がいいって?」
「やっぱり充彦の焼き菓子が食べたいってさ。いやぁ、焼き菓子人気だねぇ。できたらブール・ド・ネージュがいいな、ハート...って書いてある」
「何がハートだよ...気持ちの悪い。まあ、ブール・ド・ネージュは...いいかもな。ココアとか抹茶とかドライの苺使ってアレンジ付けられるし」
「社長にはフィナンシェのが似合ってんのにな。あれって『金の延べ棒』って意味だろ?」
「せいか~い。なんならさ、金箔とか張ってピッカピカの悪趣味フィナンシェ贈ってやろうか」
「さすがにそれだと川島さんがぶちギレそうな気がするけどね」
話をしながら、充彦は手元に置いたノートにサラサラとレシピやイラストを書き込んでいく。
どうやら、色んな焼き菓子をカゴ盛りにして贈る事にしたらしい。
「勇輝、明日撮影は?」
「明日は休み...つか、休みにされた。正月休み、5日まで延長で~す」
「オッケー。じゃさ、明日またあの店に買い物行くから付き合ってくれる?」
「勿論。充彦と一緒ならどこでも付き合うよ」
「どこまでもね...」
持っていた色鉛筆をポンと投げ、充彦が再び俺の前に立つ。
オーブンを開けたばかりの甘い香りが、フワリと二人を包み込んだ。
「じゃ、今から天国行くから付き合ってよ」
「えー!? 俺にとっては、地獄のような気がしますが?」
「こりゃあ心外だな。勇輝以外絶対に見られない、最高の天国だよ?」
「......フロランタンは?」
「ただいま粗熱を取っておりま~す。触れるくらいまで温度下がったとこで一気に切っちゃうから、先にシャワー浴びてきてよ」
次に待ってるのが天国でも地獄でも...それが充彦から与えられるなら俺はすべてを喜んで受け止める。
いや、充彦から与えられる物はやっぱり...すべて天国か。
天板の表面をツンツンつつきながら温度を確認してる充彦の首筋に一度チュッと唇を押し当てると、俺はその天国に向かうべく体を浄める為にバスルームへと向かった。
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