20 / 420

欲の生まれる時【充彦視点】

  またやり過ぎたか...枕に顔を埋めたままで身動ぎもしない綺麗な体を見下ろしながら、俺は思わず頭を掻いた。 熟睡してるってわけじゃないから必要ないだろうが、一先ず勇輝に布団を掛けて立ち上がる。 寝室から出れば、まだリビングには窓から射し込むオレンジの光が微かに残っていた。 自分の堪え性の無さに小さく息を吐き、さっき丁寧に切り分けたフロランタンの様子を見にキッチンへと入る。 俺と勇輝がベッドになだれこんだのは、まだまだ夕飯を作るにも食べるにも到底早い時間。 その時は二人とも、燻り始めた体の奥の方の熱をほんの少し吐き出すだけのつもりだった。 なんなら挿入はしないまま、お互いの物を舐め擦り昂らせるだけで構わないと思っていたのだ。 少なくとも俺はそれでいいと本当に考えていた。 けどダメなんだよな...ほんとダメ。 勇輝の素肌を手のひらで優しく撫でれば、その吸い付くような触感だけで俺の中にちゃんとあったはずの遠慮や思いやりってやつは瞬く間に霧散してしまう。 ただひたすら欲のままに貪り、食い散らかして蹂躙する...情けなくも一匹の野獣と化すのは毎度の事だ。 そして勇輝もそんな俺を拒まないどころか、いつも全てを受け止め受け入れ、そして嬉しそうに啜り泣いては意識を飛ばす。 加減しなければ...なんて理性が微かに残っていようものなら、そんな理性は取っ払ってしまえとでも言うように自ら俺に跨がり、激しく腰を振りながら更なる高みをねだる。 それでも翌日の仕事があれば、それが二人にとってはちゃんと無意識のブレーキになっていた。 気を遣るほど追い詰めて抱き潰すような事はしないし、意識が無くなるまで揺さぶられたいなんて求める事もない。 けれど時間があればあるだけ、休みが続けば続いただけ、俺は勇輝が欲しくなる。 お互いの体力さえ許すなら、24時間繋がりっぱなしでいたいほどに。 出来上がりを確認しようと、切り落としたフロランタンの端っこを口の中に放り込み、それをゆっくりと噛み締めた。 香ばしいアーモンドの風味と、キャラメルの甘くてほろ苦い味が口の中に広がる。 これなら勇輝も満足するだろう。 勇輝と出会って俺は、もうとっくに捨て去り忘れていたはずの『欲』が自分に残っていた事に驚いた。 勇輝の心と体、そのすべてが欲しいという『欲』 二人で笑いながら旨い物を食べたいという『欲』 そして...これからもずっと二人で生きていきたいという『欲』 勇輝を幸せにしたいし、勇輝に幸せだって思ってもらいたい。 その為に、俺は何をするべきなのかを考えるようになった。 俺には無用だった『未来への希望』であり『将来の夢』について、真剣に。 そして今日、俺の夢に道筋がついた。 その道を敷いたのは...やっぱりあの人だった。 俺の為に、あの人の為に...何より勇輝の為に、俺はようやく前に歩みを進める。 俺は出来上がったフロランタンと水出しの紅茶をトレーに乗せ、寝室へと向かった。 いつ意識を取り戻したんだろう...さっきまで間違いなく枕に顔を沈めたままで全身の力を抜いていたはずの勇輝は、ベッドヘッドに背中を預けてタバコを咥えていた。 全身から匂い立つような艶が濃く醸されているから、まだ体の中には熱が少し残ってるのかもしれない。 堪らなく扇情的な横顔が、入り口に立つ俺に気付いてフワリと綻んだ。 「どこ行ってたの?」 「これ。出来上がり確認してきたんだよ」 ベッドに腰を下ろすと勇輝のタバコを取り上げ、代わりに持ってきたトレーを差し出す。 その火の着いたタバコを咥えて胸一杯に息を吸うと、ゆっくりと細く紫煙を吐き出した。 そのままサイドボードの上に置いた灰皿へと火種を押し付ける。 「ボチボチ...タバコも止めるかな......」 「ん? 禁煙すんの? なんで?」 「...お菓子作る人になるから。それなりに今でも味覚には自信あるけどさ、プロになる以上はね...もっともっと舌を鋭敏にしときたい」 俺にタバコを取り上げられた勇輝が、わざとらしい膨れっ面をしながらトレーに乗ったフロランタンに手を伸ばした。 それをそっとかじれば溢れる色気が僅かになりを潜め、代わりにその元々の容姿そのままに幼い笑顔が浮かぶ。 「お、お気に召したようで」 「ん...美味い」 その言葉に満足し勇輝の体を抱き寄せようとした所で...その表情に少しだけ違和感を覚える。 黙って顔を覗き込めば、俺が何を言いたいのかわかったらしい勇輝はゆっくりと息を吐いた。 「あのさ...充彦に聞いてみたい事があったんだ......」 「どした?」 「これさ、ほんと美味い。充彦が作ってくれる料理もお菓子もね、いっつも本当に美味しいよ。だから、すごく不思議だった事があるんだ」 「不思議だった事?」 「この味なら、今すぐ売り物だって言ってもおかしくない。普段のお菓子でもね、俺の口に合う合わないだけじゃなく、間違いなくお店に並べられるレベルだと思う」 俺が『天才的な味覚』だと思ってる勇輝からの最大の賛辞。 素直にそれを嬉しいと思いつつ、勇輝が何を聞きたいのかがうっすらとわかってくる。 今度こそ勇輝の肩を引き寄せると、そっと額に唇を押し付けた。 「なんでわざわざ高い金払ってまで学校に入り直すのかって事?」 「...うん。今の充彦なら、技術でも知識でも材料の選び方でも、わざわざ勉強する必要って無いんじゃないのかなぁって。例えば来年の春に学校入ったとして、一緒に勉強する事になるのは全くの素人の子ばっかりだよね? 時間、無駄にする事になんない? それだったらさ、どこかのお店に直接修行とか行く方が充彦の為になるんじゃないのかなぁ...って」 確かに、もっともな疑問かもしれない。 既に俺は10年近くもその世界から離れ、遠回りをしているのだ。 これ以上無駄な時間をかけてどうするのかと思うのは当然だろう。 けれど製菓の世界から離れていたからこそ...俺には必要な『無駄』なのだ。 「俺が行こうとしてる学校さ...あ、元々1年だけ通ってたのもその学校なんだけどな、海外の有名パティスリーが運営に携わってる超本気の学校なんだよね。世界的にも実績のある製菓コンクールへのノミネートが必須だったり、フランスの本校に留学できたり」 「うん...」 「俺は一応正統派のフランス菓子を勉強してたんだけど、ドイツ菓子もイタリアンドルチェも大好きでさ、この学校行ったらどれも本場の一流の先生が教えてくれるし」 「うん...」 「これから一生、お菓子作りたいんだよね。ずっと美味しいって勇輝が笑ってくれるような、食べた人が勇輝とおんなじように笑って幸せ感じてくれるような」 「...うん、俺充彦のお菓子食べたらすごい幸せになる...」 「これから一生続ける為にはさ、お菓子作る腕だけがあればいいってわけにもいかないんだよな...人脈だとかって物も必要になってくるんだ。例えば最新流行のお菓子を勉強する為の勉強先だったり、人が足りなくなった時の新しいパティシエの確保だったり」 基礎を学び直したいという気持ちがあるのは当然だ。 完全にお菓子作りから離れた時期もあるし、ここ最近は全くの我流で作る物もある。 ただ、基本あってこその応用であって、我流のみで突き進んでいてはいつか流行に取り残された時に次の一手が打てないかもしれない。 それ以上に俺の目的は『人』だ。 有名パティシエでもある講師陣に顔を繋いでおく事、才能のありそうな若いパティシエの卵を見つける事。 純粋に勉強をしたいと考えていた10年前とは状況が違う。 自分の職人としてのレベルを上げると同時に、経営側の人間として有利不利を考え最も効率的に動かなければいけない。 俺の動向次第で社長の今後の事業展開が丸っきり変わってしまうのだから。 時間の無駄は勿論、失敗は許されない。 ......俺と勇輝の未来の為にも。 「充彦にとってそれは...もう、遠回りじゃない?」 「学校に通う事か? 俺にとっては、それが最短で最良の道だよ」 「そっか...ならいいんだ......」 脚の上のトレーをサイドボードの上に置くと、勇輝が甘えるように俺に凭れてきた。 右手がサワサワと何かを望むように俺の腿を撫でる。 「勉強の邪魔になるようなら...俺の事は切ってもいいからね」 「バカ言うな。お前がいないなら、俺が勉強する意味なんて無い。いいから勇輝は、ずっと俺のそばでずっと俺の作ったスイーツ食ってればいいんだよ」 脚を撫で続ける右手を取り、しっかりと指を絡める。 「切ってもいいなんて言うな。俺にそんな事できるわけないって、何度も何度も言ってるだろ? 今の俺には勇輝がいないとダメだって」 「俺もね...俺も充彦がいないとダメ。離さないでね? 離れないでね? 充彦といたいんだ...一緒にいられるならずっと...」 絡めた指が強く握り返され、勇輝が縋るような目で見つめてくる。 気付けばベッドへと押し倒され、一糸纏わぬ勇輝が泣きそうな顔で俺に跨がってきた。

ともだちにシェアしよう!