231 / 420

サプライズにもほどがある【充彦視点】

サインや握手を終えてみれば、予定の時間を1時間半ちょっと過ぎていた。 スタッフさん達が『時間がかなり押しているから』と握手を流れ作業みたいに終わらせようとした事に勇輝が怒ったからだ。 長い時間待ってくれて、その上不慣れな進行にも温かい拍手を送ってくれたファンの人をぞんざいに扱う事が許せなかったらしい。 実際、俺達も気持ちは同じだった。 時間を気にするスタッフさんの気持ちはわかる。 この後の予定が押してる事だって重々承知してる。 それでも、わざわざ写真集やDVDをこの場で予約してまで俺達と近づける事を楽しみにしてくれてる人達に対して、『お喋りは無しで、握手終わったらさっさと次に移動してください』なんて雑な誘導はどうしてもいただけない。 スタッフの焦りや強要を一瞥し、一人一人としっかり握手し、涙を浮かべる子の頭を撫でてやり、テンションの上がった女の子とは元気にハイタッチをして...気づいた時には、もうアズールに入らなければならない時間にまでなっていた。 なんでも『鋭気を養ってもらおう』なんて事で、この近くにあるという老舗の鰻料理屋に連れていってくれる予定だったらしいのだが、当然そんなことをしている暇はない。 このまま移動して、向こうで準備をしながら合間に弁当をかきこむ事になった。 もっともそれは俺達自身が望んだ事だし、鰻を食べる時間の為にファンを蔑ろにするなんて事はあっちゃいけない。 俺達にとっては老舗で鰻重にがっついているよりも、よほど有意義な時間だった。 車はすぐに堀江へと到着し、俺と航生は再びエプロンを着けると、慌てて厨房に入った。 今日来てくれたお客さんに提供する軽食とデザートは、すべて俺と航生の手製だ。 ビュッフェ形式で自由に取ってもらえるように、すべて小さなサンドイッチとカナッペの形にしてある。 「充彦さん、ラムレーズン、いい感じにラム抜けてますよ」 「オッケー。じゃあ、クリームチーズに混ぜて、昨日買ってきたハーブ入りのラスクに塗っていって。あとケッパー刻んでサーモンのペーストと合わせたら、そっちはガーリックトーストな」 「すいません! 朝準備されてたグレープフルーツのジュレなんですけど、ちょっと固まり方が甘くて、自由に掬って取ってもらうのは難しそうで...」 「どんな感じですか? ......ああ、確かにこれじゃ、掬っても流れちゃいますね...じゃあ、大きなパンチボール出してください。このジュレ、ぐちゃぐちゃにしながらボールに入れて、そこにさっき勇輝が色々準備してくれてたフルーツを刻みながら一緒に混ぜちゃいましょう。慎吾く~ん、手が空いてたら手伝って! カクテルグラス60個、このボールの横に並べるから、準備よろしく」 目が回るほど慌ただしくて忙しい。 けれどこの忙しさは、決して俺にとって不快な物ではなかった。 作業効率、指示を出す相手の器量、そして時間...色々な事を考え、計算をしながら仕事を進めていくために最適な手順を導き出す。 そしてその先には、お客さんの喜ぶ顔。 これから自分が進もうとしている道に待っている事、そのものだ。 きっと毎日が忙しくてクタクタだろうけれど、こうして充実した気持ちでいられるに違いない。 そしてそんな疲れた俺を、勇輝がいつまでも癒してくれるのだろう。 「みっちゃん、そっち早めに終わらせて弁当食べてくださ~い。でないと、衣装に着替える時間、無いなるんで」 「了解! じゃあ、皆さん申し訳ないんですが、俺ちょっと着替えに入らせてもらいます。パンケーキはできるだけ焼きたてをお出ししたいので、先に準備しとかないで、状況を見ながらでお願いします。あと、カナッペが減ってきたら、俺予備にブルーベリーとカシスのジャム持ってきてますので、これとブルーチーズを混ぜて新しいの作っちゃってください。本当に忙しいと思いますが、どうぞよろしくお願いします」 場所代にスタッフの日当...決して安くは無いだろう。 料理や酒に拘りたいとごねたのは俺達だから、この部分については俺達自身の持ち出しだ。 それらを引いた所で、かかった経費は驚く金額になっているはずで...今日来てくれるお客さんの売上分くらいはすっ飛んでるかもしれない。 それでも俺達のわがままを聞いてくれた。 商売っ気が無いわけではないだろう。 今回のイベントの様子はネットで有料配信にすると言うし、これからビー・ハイヴで運営してる有料のファンサイトへの登録も大幅に増える事が見込まれているのだそうだ。 けれど金勘定だけならば、ここまで無理に大きなイベントにする必要は無かったと思う。 これはひとえに、『俺達の希望を叶える為』の尽力だ。 俺達が渋っていた専属の話を受けた事でオマケのようにくっついてきた航生は、今や俺達を凌ぐかという人気男優になろうとしている。 勇輝に会いたい一心で上京を決めたという慎吾くんも、航生という最高のパートナーを得た事で更に活躍の幅を広げるだろう。 すべての起点となった俺と勇輝への、会社からの感謝の気持ちと誠意...俺にはそんな風に思えた。 エプロンを外し、控え室へと入る。 そこでは先に中に戻っていた航生が、一人でモソモソと寂しそうに焼肉弁当を口に押し込んでいた。 「お前だけ? 勇輝と慎吾くんは?」 「う~ん...なんか、準備に時間がかかるからって、ダッシュで弁当食って奥に引っ込んじゃいました」 「準備って...これだろ?」 傍らに吊り下げてある服を指差す。 深い光沢のブラックの燕尾服に、グレーのベスト。 シルバーと濃紺のアスコットタイに、それと共布で作ったポケットチーフが胸に刺してある。 航生は勿論、勇輝も慎吾くんもほぼ同じ服を用意していた。 イメージとしては、夜会にお嬢様方をお招きした家の執事...当然、真っ白な手袋だって準備済みだ。 飯食って、着替えてヘア直して...何にそれほどの時間がかかるというのだろう? 疑問を払拭できないままで黙々と弁当を口に運び、航生と並んで燕尾服に着替える。 「もうお客さんほとんど揃ってますよ。身分証のチェックも終わりました。あと10分ほどで入場の時間ですけど、準備は大丈夫ですか?」 「ああ、俺達はいけてるんですけど......」 「勇輝さんと慎吾さんがまだ......」 俺達を呼びにきたスタッフさんとやり取りを始めたタイミングだったろうか。 「ちょっ、お前...これ、ほんとに大丈夫なのか?」 「心配せんでもいけてるってば! すいませ~ん、遅くなりました!」 奥から慎吾くんに突き飛ばされでもしたのだろうか。 ドタドタと不細工な格好で勇輝が控え室に転がり込んでくる。 あ、いや......ほんとに勇輝...なのか? 目の前の勇輝らしき人間の姿に、俺は思わずポカンと口を半開きにしていた。

ともだちにシェアしよう!