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未来の為に舌鼓7

「健一さん、失礼ですが、現状一日の生産量ってどれくらいですか?」 よほど味が気にいったのか、充彦は少しだけ蜂蜜を垂らしたクリームチーズを口に運び続けながら、ひどく冷静な視線を向ける。 これまでビデオやグラビアで見ていた、穏やかで色気に溢れた顔や牧場を回っていた時の明るい笑顔しか知らないであろう健一さんも修司さんも、少し呆気に取られているようだ。 俺は極力ビデオと同じ笑顔を作りながら、わざとらしくペシッと充彦の肩を叩いた。 「んもう、充彦はいきなりすぎ。早く本題に入りたいのはわかるけど、二人とも不躾すぎてびっくりしてるじゃん。健一さん、すいません…たぶん充彦は、さっき牧場を見せていただいてる時の説明を思い出して、自分がいざこちらの牛乳を買わせていただくにあたって不安な部分を解消しておきたいんだと思うんです」 充彦にメモ用紙とボールペンを渡し、チラリと目で『任せて』と合図を送った。 おそらく今の充彦は、この牛乳を使う自分の未来に気持ちが逸りすぎて珍しく冷静さを欠いている。 普段の飄々とした雰囲気もふんわりとした相手をリラックスさせる空気も作れていない。 航生がチーズ作りに胸を張ったせいもあるのだろう。 俺達には感じさせなくても、他人の人生を背負うというプレッシャーが大きくなっているのかもしれない。 ならば、こんな時こそ俺の出番だ。 充彦が冷静になれる時間を作る。 いつも通り、真剣なようでいてサラッと軽口や冗談を挟み、和やかな笑顔の裏でギラリとその目を光らせる、あの充彦に戻る為の時間を。 それが充彦いわく、『勇輝ママ』の役割だろう。 俺が立ち上がれない時は、充彦が俺を支える杖になる。 充彦が壁に正面衝突しそうなら、俺が間に入って緩衝材になる。 それこそが俺達の在り方だ。 「さっき搾乳場で、だいたい一度に10リットルの牛乳が搾れるって言ってましたよね? あの時6頭が搾乳に来てましたけど、そうなると一日に搾れる牛乳は60リットル程度って事ですか?」 充彦は何も言わず、ポンポンと俺の膝を叩いた。 うん、さすが俺? 聞きたかった事は、やっぱりこれで合ってたらしい。 「いや、さっきも言ったように、ストレスを最小限に抑える為、食事も搾乳も牛の意思に任せてるんだ。なのでみんなが来る前…朝一番にも一度搾乳は終わらせてるし、この後夕方にも搾乳の時間がある。だいたい朝が一番量が多くて、一日3回の搾乳で200リットル前後がうちの生産量って事になるかな?」 「そのうち、廃棄に回る牛乳は無いんですよね?」 「ありがたい事に、今は無いね…毎日匠のホテルにはかなりの量を仕入れてもらってるし、この辺の洋菓子店はうちの牛乳を使ってくれる所が多いから生クリームやバター、チーズなんかの加工品の注文も少なくない。寧ろ急な注文には対応しきれない事もあるくらいだから」 うん、やっぱりそうか…充彦が一番聞きたかったのはこの『余剰分』についてだったはずだ。 どれだけ味が良くても、どれほど品質に惚れ込んでいても、それを買えなければ意味が無い。 言葉こそ発しないけれど、充彦の眉間には自然と皺が寄った。 さて、ここからどう話を切り出すべきか…唇をトントンと叩きながら視線をどことはなく上にやる。 一瞬だけ広がる沈黙。 あまり居心地が良いとは言えないその場の沈黙を破ったのは、充彦でも俺でも無かった。 「勿論今すぐの話ではありませんが…今後搾乳量を増やす計画はありますか?」 みんなの視線が一点に集まる。 楽しげな雰囲気はそのままに、全員の視線を浴びる事になった航生は落ち着いた様子で背筋を伸ばした。 「お聞きかもしれませんが、充彦さんは芸能界を引退してからパティスリーを中心とした飲食店グループの運営会社を興す事になってます。俺もいずれはその充彦さんを手伝う事になるでしょう。それで、その会社の事業計画を左右する事になるだろう最初の店に、こちらの乳製品を是非使わせていただきたいと思ってます。俺にチーズの作り方を覚えろと言ったのも、味に惚れ込んだこちらの牛乳を使った出来立てのフレッシュチーズを、いつかは店の目玉メニューにできればと考えたからでしょう。少なくとも俺はそう捉えています。ただ、現在の生乳の生産量では、充彦さんが思う存分店で使えるだけのクリームもバターもチーズも確保できませんよね? 健一さんも修司さんも、地元の方を後回しにしてまで充彦さんに商品を送るなんて不義理な事はしないはずですから。ですから、この牧場の牛乳を地元の方にご迷惑をおかけしない状態で俺達が使わせてもらう為には、生乳の増産しか無いと思うのですが…その予定はありますか?」 単刀直入に、けれど穏やかに…二人の立場も考えてこちらからの要求を伝える。 航生はいつの間にそんな事ができるようになったんだろう? 充彦が言うべき事を、俺が言うべきだった事を、これほど完璧に代弁できるだなんて思ってなかった。 その航生の姿に充彦は目を細め、柔らかく微笑む。 ……ああ、もう大丈夫だ。 充彦にいつもの顔を取り戻したのが俺じゃないのは少し悔しいけれど、それでも俺の口も自然と綻ぶ。 「オッケー、航生ありがと。もう大丈夫…ここからはちゃんと俺が話すよ。今後の俺達の予定をすり合わせていかないと、惚れ込んだ牛乳が使えないって事になるからな…現段階で俺と勇輝と社長の間で話してある細かいとこまで説明するわ」 その笑顔にホッとしたらしい航生に慎吾が飛び付く。 『カッコ良かった』なんてその胸元にスリスリと頬を寄せている周りが見えなくなってるのも、まあ今はいいだろう。 実際あの瞬間の航生は、本当にカッコ良く見えたし。 今度は充彦がカッコ良く見せる番だ。 『もう大丈夫』と言うように俺の頭を引き寄せつむじにチュッと唇を付けると、充彦はさっき渡した紙に細かく数字を書き込み始めた。

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