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大阪LOVERS【6】

風呂に入ってみれば、そりゃあまあここも広かった。 洗い場も湯船も、俺サイズですら十分過ぎるほどに余裕がある。 イベントが終わって、東京から持ち込んだ荷物の整理も兼ねて一旦ホテルに戻り、その時ついでにシャワーを浴びてはいたけれど、夜でもやはり真夏は暑い。 かなりお湯の温度を下げて、シャワーのコックをひねった。 目線を落とせば、足元に置いてある備え付けのシャンプーもリンスも、表示に偽りが無いのならば結構な高級品だ。 香りがやけに甘くて強くて自分が使うのは苦手だが、腕の中にいる女からこの香りが漂うのは好きだった記憶がある。 勇輝は髪を洗っていた。 あの部屋に入ってきた時、頭にタオルを巻いていた。 おそらく特に意識もせず、このシャンプーやリンスを使っているだろう。 ウィッグを被れば多少香りは薄くなるかもしれないけれど、それを堪能できるくらいに体を、そして顔を近くに寄せればいいだけだ。 普段は体も髪も俺と同じ香りで、その事に落ち着き安らぐ。 けれど今日は勇輝から俺とは違う香りがする事にこそ気持ちが昂りそうだ。 一度シャワーを止め、洗面台の方へと戻る。 「この匂いが染み付いちゃうとマズイ人もいるはずなんだよな......」 決して安くはないこの部屋の料金を気軽に支払える人間の中には、家まで外の匂いを纏わせて帰るわけにいかない立場の者もいるはずだ。 いや、そういう人間の方が寧ろ多いかもしれない。 ならば、そんな客に対しての配慮もされているはず...女性用のアメニティグッズの入っているかごの中を探る。 「あったあった、やっぱりな...」 若い人間はあまり使う事のない、トニック系のシャンプーとリンスの小袋を発見。 おそらく使用後には相当髪がギッシギシになるだろうが、今日一日だけの我満だ。 勇輝から立ち上る官能的な香りを楽しめると思えば、最悪明日丸坊主にしなければいけないほど髪が傷んだとしてもそれは大きな問題では無い。 頭を洗い、体を洗い、勇輝が準備してくれていたらしい湯船へと浸かる。 本当ならさっさと出て、勇輝をあのわけのわからないベッドに押し倒してしまいたい所だけど、まだ準備は終わっていないかもしれない。 少しでも時間を作ってやろうと、さして見たいわけでもない小さなテレビのスイッチを入れた。 チャンネルが違うからどこに合わせたら良いのかわからず、仕方なくNHKにしてぼんやりとその画面を見る。 時事問題を難しい顔で難しい言葉を使い解説する、面白くもなんともない番組。 けれど今日の話題は『フェアトレード』についてで、思わず真剣に見入ってしまった。 フェアトレードは、洋菓子の職人を目指している以上関心を持たざるを得ない問題だ。 工業品はともかく、主にカカオやナッツ類、それにコーヒーなどを栽培する大規模なプランテーションが、今このフェアトレードの名の元に改革を求められている。 巨大消費国が最貧国の安い人件費を利用するために不公平な契約を結び、極端に低い代金を賄うために農園では学校に行くべき年齢の子供をタダ同然で長時間働かせる...この仕組みを変えなければいけないという動きの中で生まれた『フェアトレード』という考え方は、決して間違いではない。 けれど、その本来正しいはずの考え方は、世界中のカカオやコーヒーの価格に暴騰という問題を引き起こした。 正規の取引のため上乗せされた人件費は莫大な額に上り、さらにここに、ここ数年の各地の悪天候による不作が追い打ちをかけている。 自分の体一つで金を稼いでいる今とは違い、職人になればその高騰し品薄となった原材料に頭を悩ませなければならなくなるのだ。 数年の猶予があるとはいえ、俺がその世界に入った時にすべての状況が好転しているとは思えない。 「どんな仕事でも...簡単じゃないよね......」 暗い映像に暗い話し方のその番組が、ドーンと気持ちを重くする。 今日初めてファンの子達の前で引退を口にしてしまったから、余計なのかもしれない。 「ヤバいな...こんな番組見るんじゃなかった...」 暗い解説員が頭を下げたところで急いでテレビを消し、ため息をつきながらジャグジーのスイッチを入れてみた。 思っていた以上に激しい泡が、痛いくらいに体を刺激してくる。 なんとかボーッとして、頭の中を空っぽにしようと目を閉じた。 ......勇輝、まだかな...... 頭が空っぽになることはないけど、勇輝の事さえ思い出せば胸の中の重い物は軽くなるような気になる。 いや、実際勇輝さえいてくれれば、今どれだけ不安でも怖くても、きっと踏ん張って乗り越えていけるはずだ。 「よしっ、もう大丈夫!」 勇輝の顔が見たくて仕方ない。 可愛がってやりたくて、幸せにしてやりたくて仕方ない。 それこそが俺も一番幸せになる方法だから。 「ぼちぼちいいよな...じゃ、姫様可愛がりにいきますか...」 どんな姿になってる? 俺にどうされたいと思ってるんだろう? 頭の中から未来への不安が完全に消えたわけではないけれど、今の俺がすべき事は...勇輝の望みを叶えてやる事だ。 ジャグジーのスイッチを消し湯船の栓を外すと、俺は立ち上がり体を丁寧に拭いた。

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