3 / 118
「やる、やります」
「……ん、」
「あ、起きた? おはよう」
「っ、えっ俺寝落ち……ご、ごめんなさいっ」
寝起きのぼやけた視界で佐伯さんの姿を捉えてぼんやりした頭が一気に覚醒した。慌てて身を起こしたところで自分が上半身裸なことに気付き、枕元に綺麗に畳まれていたTシャツに雑に手を通す。クスクスと笑いながら渡されたコーヒーを受け取り、おずおずと口を付ける。
「身体痛くない?」
「ッ、だい、じょうぶです……!」
長い指が俺の髪をするりと撫で、先程の情事を思い出して顔が熱くなった。
そうだ、俺、この人とヤったんだ。
真っ赤な顔を隠すように俯いていると、佐伯さんが俺の隣に腰を下ろす。
「ねぇ、やっぱりうちの会社で働いてよ」
「えっと、AV……?」
「うん。ゲイ物のAV作ってるんだけどね、千尋にうちの男優になって欲しい」
手渡された佐伯さんの名刺には「R」という会社の名前。もう片足は突っ込んじゃってるけど、契約云々の話になったら途端に腰が引けてしまう。
そんな俺のチキンっぷりに勘づいたらしく、佐伯さんは固まってしまった俺の頭を優しく撫でる。
「ギャラも他の男優より多く出すよ。今回もかなり奮発したし」
「いや、金の話じゃなくて……って、やっぱり二十万って多いんだ」
「一回きりのただの素人なんて数万がいいとこだよ。この二十万は俺のポケットマネー」
「え?」
トン、とベッドサイドのテーブルの上に置かれた封筒。
今、なんて言った? ポケットマネー? 佐伯さんの?
「い、やいやいや。そんなの貰えませんよ!」
「俺が買いたかったから買ったの。二十万どころか千尋にならいくらでも払えるよ」
「な、」
何言ってるんですか、と笑い飛ばそうとした。出来なかった。目の前の佐伯さんは真剣な表情をしていたから。
その眼差しは動揺を隠せずに泳いでしまう俺の視線を捉え、ただ真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「そのくらい千尋が必要なんだ、って言ったら契約の事考えてくれる? 今手放すのは惜しい。マジで」
「……う、あ、」
必要とされてる? 俺が? それは嬉しい。切実に、嬉しい。この人、マジで何なの? 俺のツボ突いてばっか。
うまく手の平で踊らされているのは分かってても、そんなんされたら、もう逃げられない。
「……うん、やる、やりたい、」
「え……マジ……?」
「何ですかその反応」
「ふふ、玉砕覚悟だったからちょっと本当に嬉しい。ありがとう」
そうにっこり微笑んでくれる佐伯さん。あの貼り付けたような胡散臭い笑顔じゃなくて、子どもみたいな無邪気な笑顔。なんだ、ちゃんと笑えんじゃん。
俺まで嬉しくなって、でも悔しいから気付かれないようにコーヒーで流し込んだ。
――――――
「あとは……あ、ここにもサインして」
「はい」
思い立ったら即行動。そんな精神があるのか、佐伯さんのバッグから次々に出てくる書類に少し驚きながらも順に埋めていく。
「十九歳なんだ。普段何してんの? 学生?」
「いや、フリーターです。夢も、やりたい事も無くて」
「なるほどね」
高校の教師にはそれを探すために大学に行ってみろ、って言われたけど。見つかるかも解んない物のために、また金かけて進学するなんて無理だから辞めた。
そんな中途半端なまま就活で生き残れる訳がなく、この春から晴れてフリーター生活。
「一人暮らしか。ここから遠いね。通勤手段は?」
「車も無いんで電車ですかね」
「あ、じゃあここに住む?」
「え? ここって……このホテル?」
「うん。ここ昔はビジホだったんだけど、今はうちの会社の物なんだよね。部屋を改装して撮影に使ってる」
なるほど。この部屋に来る時に通り過ぎたフロントに誰も居なかったことを思い出して納得。
「撮影に使う部屋以外は家なき子達のアパート代わりになってるから、良かったら千尋もどう?」
「わ……ぜ、是非! 住みたいです!」
「よし。じゃあこの書類も追加で」
「はいっ!」
こうして、俺の非日常な新生活がスタートした。
――――――
「引越し業者かあ……」
カーペットが敷きつめられたホテルの廊下。先程別れた佐伯さんの言葉を思い出しながら歩く。
「本当に荷物いいの? 俺車出して運ぶよ?」
「いえ、少ないんで自分でやります。ここまでやって貰っただけで十分!」
「そっか、でも大変そうなら呼んで? いつでも手貸すから」
「うん、ありがとうございます」
何度も着信を告げていた佐伯さんの携帯。佐伯さんはその度にバレないようにしていたけど、ちゃんと俺の耳にもそれは届いていた。佐伯さんだって暇じゃないんだ。これ以上手間をかけさせる訳にはいかない。
ホテル内は撮影用の部屋以外にも空いてる部屋が多いらしく、元々ツインルームだったという広い部屋を与えて貰った。暮らすためのリフォームもされていて、簡易的なキッチンも付いている。
残る問題は現在一人で暮らしているアパートからの荷物の移動。携帯で手頃な引越し業者を調べていると目の前のエレベーターが開いて、
「わわわっ」
「へ……うわっ!」
ドンッ。エレベーターの中から飛び出してきた小柄な女性。携帯に意識を向けていた俺は避けることも出来ずに勢いよくぶつかってしまう。
「いったーい! ごめんねだいじょぶ? 人居るとは思わなくって」
「だ、大丈夫です。こっちこそ突っ立っててごめんなさい」
顔を上げて思わず数秒見とれてしまった。人形みたいに整った顔立ち。長いまつ毛に縁取られた大きな目には色素の薄いグレーのカラコンがキラキラと潤み、胸下まで緩く巻かれたミルクティーブラウンの髪がふわりと揺れる。
うわ、この子、かわい……
「わあっ。お兄さんかわいいねぇ」
「い、いや、可愛いのはそっち!」
思っていた事を何故か先に言われ、慌てて否定する。すると女性はニコニコと抱きついてきて。
「ホント? アヤ可愛い!? 嬉しーい! ありがとーっ。お兄さんも可愛いよーっ」
「い、いやいやいや……」
突然のスキンシップに慌ててしまう。でも、これだけハイレベルな子なら可愛いなんて言われなれてると思うけどな。素直にこんなに喜んでくれるなんて、外見だけじゃなく性格も可愛い女の子なんだと感心。
「てかお兄さん初めて見た。新人さん?」
「そうなるのかな? さっき契約書書いたばっかで」
「そうなんだ。アヤめっちゃ先輩だから何でも聞いてね。名前は?」
「千尋です。先輩って事はアヤさんもここで働いてるんですか?」
「そだよっ。アヤはバリネコ。お兄さんもネコっぽいから絡み無さそうだけど、もし一緒になった時はよろしくねっ」
抱きついたままニコニコと笑うアヤさんの言葉に固まる。
「バリ、ネコ……絡み、?」
「ふぇ? どしたのー?」
頭をフル回転させて佐伯さんの言葉を思い出す。ここはゲイビを作っている会社。ちんこを突っ込まれる方がネコ。ちんこを突っ込む方がタチ。そんなざっくりとした説明。ってことは……
「アヤさんって男!?」
「にゃ? そだよ? あれ、もしかして女の子だと思った?」
「当たり前じゃん! だってどっからどう見ても女の子にしか……」
「わーい嬉しい! ちいちゃん大好きーっ!」
「う、わっ!」
ドンッと体当たりのようなハグに押され、二人して床に倒れ込んだ。
痛い……けど……、
「だいすきだいすきーっ! 仲良くしよー!」
こんなに喜んでくれてるんだから、まあいいか。ぎゅうぎゅうと密着して初めて気付いた、アヤさんのぺたんこな胸はまぎれもなく現実で、ちょっと泣きそうになった。
――――――
「カズ起きてーっ!」
すっかり打ち解けたアヤに引越しのことを相談してみたら、連れてこられたのはホテルの最上階。一室の扉をドンドンと叩きながら声を張るアヤに恐る恐る声をかける。
「ちょ、アヤ……こんなことして大丈夫なの?」
「うんっ。あのね、この部屋の住人に……」
ガチャ、
「アヤ! うるせぇよ!」
「カズおはよーっ。ちいちゃんの引っ越しするから車出してっ」
「はっ!?」
カズ、と呼ばれたこの男はアヤの言葉に目を見開く。事情を分かってる俺でも、この突然の訪問には対処出来ないと思う。
「ちいちゃん新人さんなのっ」
「は、はじめまして。千尋っていいます」
スッと睨まれたような気がして思いっきり頭を下げると、聞こえてきたのは予想に反した優しい声。
「そんなビビんなよ。俺若林カズ。Rの社員で雑用とかADとか色々やってる。よろしくな」
「よ、よろしくお願いします!」
「車出すわ。下で待ってろ」
良かった。良い人そうだ。
真っ赤な短髪と目つきの悪さ。そしてその世界とは無縁な俺にでも解るその手は、喧嘩の為に作られた拳。見た目からはお世話にも良い人とは言えないが、俺達の突然の訪問と頼み事にあっさり承諾してくれた。
ホッと胸を撫で下ろしているとカズさんの頭の上からニョキと顔を出す長身の男性。
「俺もお手伝いします」
「にゃっ。朝日も来てくれるの?助かるーっ」
「はいっ。千尋さん初めまして。高橋朝日といいます。ネコ男優でプロフィールは"185cm高身長×20cm超え巨根の正統派バリタチイケメンを組み敷く快感をアナタに……”です!よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします、」
ニコニコと笑みを絶やさない端正な顔立ち。そこから発せられたとんでもない単語達をなんとか受け止めながら、スっと伸ばされた手を握って頭を下げる。
軽く自己紹介だけ済ませるとカズさんと朝日さんは着替えるために一旦部屋に戻っていった。なんとなくそれを見送ってからアヤに向き直る。
「二人、この部屋で一緒に暮らしてるの?」
「もちろん。付き合ってるからね」
「え、あ、え。そうなんだ!」
「にゃ。ちいちゃんノンケっぽいのに理解あるのね」
いい子いい子、と頭を撫でられるがそうじゃない。同性愛とかノンケとかゲイビとか掘るとか掘られるとか。今日一日で世界が変わりすぎてショート起こしてるだけ。どうかうまくやっていけますように!
ともだちにシェアしよう!