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疎外感
「はいっ、出来上がりーっ」
「消えた……?」
「こんなかんじ。どう? だいぶ目立たなくなったでしょ?」
「うん、ありがとうアヤ、」
眠れないまま一夜が明けた。
大地さんに殴られて紫の痣を残してしまった右頬は、アヤの手によって完全に修復された。
ファンデーションとコンシーラーを塗り重ねられたそこを鏡でぼんやり見つめていると、アヤが静かに口を開く。
「……誰に殴られたの?」
「……」
言える訳がない。だって、自分でもまだ整理出来ていないから。
俺の大ファンだと熱く語り好意を向けてくれた大地さんの、あの呪うような罵声を思い出し、ズキンと痛んだ胸をぎゅっと握った。
俯いて押し黙ってしまった俺の頭を、アヤの手が優しく撫でる。
「佐伯さんにも相談出来ない?」
「っ、無理だよ……、」
「そっかあ……」
大地さんとのルール違反は、ただの“ファンとの接触”では済まない事になってしまった。
あのブログの件はきっと、このまま隠し通せないくらいの大きな問題だと思う。佐伯さんに相談しなきゃいけないことも分かってる。事務所にも早急に報告しなきゃいけない事も分かってる。
でも、今はまだ頭が真っ白で。
「でもさ、なんか小さい事でも相談してみたら……、」
「アヤ、ごめん。俺撮影あるから……」
「……うん、わかった。行ってらっしゃい」
何か言いたそうに眉を下げるアヤを残し、重い足取りで逃げるように部屋を後にした。
――――
「千尋くんだあっ。おはようございまあすっ。どうしたんですかあ?」
「え? えっと、今から撮影で……」
撮影の現場である部屋に入った途端に駆け寄ってきたのは弥生くん。何故か今日の俺の衣装である学ランを着ていて。
疑問に思いながら後ろ手にドアを閉めれば、弥生くんがきょとんと首を傾げる。
「あれ? 今日の撮影、千尋くんの代わりに僕がやることになったんですよ?」
「おかしいな。連絡いってない?」
「え……?」
弥生くんとスタッフさんの言葉に目を丸くして固まる。
知らない。聞いてない。なんで……。
真っ白になった頭でなんとか理解しようとしていると、すぐ後ろでドアが開く。すぐさま響いた弥生くん甘い猫なで声。振り向かなくてもその人物の正体は解った。
「佐伯さあんっ! おはようございまあすっ」
「……おはよう。準備出来てる?」
「はいっ!」
立ち尽くす俺を一瞥して、でも何も言わずに横を通り過ぎていく佐伯さん。その腕に絡みついて後を追う弥生くんの姿に、頭に鈍い痛みが広がった。
そんな光景を不思議に思ったのか、スタッフさんが台本を広げながら口を開く。
「佐伯さん、千尋くん代役の連絡いってないみたいなんですけど……」
「ああそうだね、忘れてたわ。それよりシーツの色暗すぎない? 他に無いの?」
ドクン、心臓が嫌な音をたてる。
何、何、なんで……どうして、佐伯さん、佐伯さん、
俺の方には見向きもせずに現場に指示を出す後ろ姿。一歩も動けないままただ呆然と見つめていると、ふと佐伯さんが振り返り、
「千尋、撮影始まるから部屋出て」
「……っ……な、んで……、」
「何でって、だから撮影始まるから……」
「違うッ! なんで俺じゃなくてアイツなの!」
怒鳴り声を上げた俺に、部屋の空気がピタリと止まる。驚いて動きを止めるスタッフさん。びくりと肩を揺らしてうつむく弥生くん。そして無感情な冷たい瞳で俺を見つめる佐伯さん。
その全てに苛立って、ただただ目の前の佐伯さんを睨みつける。
「……部屋出て話そう。お前らは撮影始めといて」
「は、はいっ……!」
ため息をつきながら弥生くんの頭をポンと撫でるあの優しい手。もう一度ズキンと痛んだ心臓をギュッと押さえ、ドアノブに手をかけ廊下に出る。
「何が不満なの? 連絡届かなかった事? それは謝るよ」
「そうじゃなくて! 何で弥生くんに変更になったの!? 何で俺じゃ駄目なの!?」
「ただ上から“良い作品”を求められたから変更しただけ。そんな感情的になる事じゃない」
「なっ……!」
淡々と告げられた佐伯さんの言葉に目を見開く。
恥も外聞も忘れて怒鳴り散らす俺からは理性も余裕もとっくに消えていて。ただただ脳内を埋める真っ赤な感情に従うままに、目の前の佐伯さんにつかみかかる。
「何だよそれ! 俺じゃ“良い作品”は出来ないってことかよ!?」
「そういう訳じゃないよ。でも弥生の方が技術があるから。お前だって解ってんだろ?」
「っ! 俺だって出来るようになったじゃん! 佐伯さんだって褒めてくれたじゃんか!」
エロかったって。可愛いって。最高だったって。そう褒めて頭撫でてくれたじゃんか。嬉しかったのに。幸せだったのに。
そうすがりつけば、にっこり笑って。
「そうだね。どっかのご主人様の調教のおかげだね。オメデトウ。俺からもお礼言っといてくれる?」
「……っ……!」
――パンッ
「っ、あ……」
「……」
「ご、ごめんなさ……!お、俺……っ、」
廊下に響く乾いた音に我に返り、ジンジンと痺れる右手をギュッと握る。佐伯さんは何も言わずうつむいたまま、叩かれた頬をそっとなぞり。
そして、ゆっくりと顔を上げ。
「……っ……!」
また、あの冷たい瞳。こちらを見据えられ、びくりと肩を揺らして一歩下がる。
そしてそのまま、震える身体を引きずるようにその場から逃げ出した。
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