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弥生くんには結局自分の気持ちは何も話せず、佐伯さんへの思いも隠し通して表面上だけ良い顔を取り繕っていた。
恋を応援するなんて約束しておきながら俺が佐伯さんとくっつくなんて、騙したようなものだろう。
本当に悪い事をしてしまった。その罪悪感からいつまでも逃げ切れる訳じゃないのに。
カップに揺れるコーヒーをぼんやりと見つめていると、佐伯さんがふと口を開く。
「そういえば言ってなかったっけ? 弥生寮に移る事になったから」
寮……?
「あらま。そおなの? 寂しくなるねー」
「そうだね。俺は担当減って嬉しいけど」
「弥生っち売れっ子素質あるから大変そうだもんね。次のマネージャーは誰なの?」
「んー確か……」
「ちょ、ちょっと待って!」
ポカンとハテナマークを浮かべた俺を置いて、どんどん進んでいく二人の会話。一瞬思考が停止した後、我に返って慌てて中に入る。
「寮って何? ここじゃないの?」
「あー、このホテルはあくまでも撮影現場。実は本社の近くにちゃんとした寮があるんだよね」
「ほとんどの男優はそっちに住んでるんだよーっ」
「そ、うなんだ……」
そんな場所があるなんて知らなかった。でも確かにこのホテルで“暮らしている”男優なんて十人居るか居ないか程度。
撮影の為にホテルへやって来るあの大量の男優達は皆ちゃんと他に住む家があるのかと。ワケアリが多いこの業界だからこそ、密かに疑問に思っていた事でもあった。
「教えなくてごめんね。普通なら最初の契約の時に選ばせるんだけど、千尋は向こうに入らせるつもり無かったから」
「へ? なんで? 寮入っちゃダメなの?」
ほとんどの男優がそっちへ行くなら俺だって行っても良い筈じゃ。そう首を傾げた俺に、眉を下げて苦笑する佐伯さん。
「んー……うちの会社にも派閥っていう面倒な物があってさ」
「派閥……」
「そう。だから向こうに行かれちゃうと俺はマネージャーにもなれないし、完全に手出し出来なくなるんだよね」
「そうだったんだ……」
「うん。まあ主に“アヤが嫌い派”と“それ以外派”なんだけど」
「んにゃっ!? それだとアヤが嫌われ者みたいじゃん!」
「実際そうだろ。最初はここが中心だったのに皆出て行ったし」
「むー……」
不動のNo.1であるアヤを煙たがっている男優達がたくさんいるっていうのは前から聞いていた。でもそれが、会社全体を巻き込んだ派閥まで産んでいるなんて。
「アヤ悪くないもん……」
唇をとがらせてテーブルに突っ伏すアヤの頭をポンポンと撫でてやると、ニコニコとその手にすり寄って甘えてくれる。
こんなに可愛くて明るくていい子なのに嫌われてるなんて信じらんない。なんでだろう? No.1だから?
まあ“可愛い物以外は総じてゴミ”という世界観の狂いっぷりと、基準以下の人間に対する多少の性格の悪さは認めるけど……。
「ま、ブサイクちゃん達に嫌われてるなら大歓迎だしっ。でも派閥まで出来ちゃってるのは問題だよねえ」
「いや一番の問題はお前のそういう……うわ、何このクッキーうめぇ」
「ほんと? やったあっ」
もし本社近くの寮に入っていたら、アヤとも佐伯さんとも一切関われなくて……きっと今とは全く違う人生になっていただろうな。
そう考えると今のこの“日常”がなんだか特別幸せな事に思えた。
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