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「弥生くんのこと、ちいちゃんが気落ちして悩むことないからね」 「え……?」  これから撮影があるらしい佐伯さんと別れ、俺の部屋へ向かうエレベーターの中。アヤが小さく呟いた。その言葉はまさに今心に影を落とし始めていたモヤモヤそのもので。 「佐伯さんが選んだのはちいちゃん。ちいちゃんが選んだのは佐伯さん。ただそれだけだよ」 「アヤ……ありがとう、」  アヤの普段とは違う真剣な顔つきと淡々とした言葉に救われる。いつもふわふわと気まぐれに明るく振る舞うアヤ。その笑顔の下でどれほど周囲に気を配っているのだろう。  弥生くんへの罪悪感に俯いていた俺に、アヤがぽんぽんと頭を撫でる。 「なんでちいちゃんがヘコむのさあーっ。なんにも悪くないのにっ」 「でも弥生くんの事裏切ったし……」 「違うよ。応援の約束なんて向こうが勝手にしてきただけじゃん。好き同士がくっついただけの事でぐちぐち言う弥生くんの方がよっぽどうざ……」 「あっ、アヤちゃんに千尋くん。お疲れ様でぇすっ」 「わあっ弥生くんお疲れーっ! ぎゅーっ!」  びっ、くりしたあ……!  8階で開いたドアの前に現れた弥生くん。突然の本人の登場にバクバクと騒ぐ心臓。  そして何より数秒前まで「うざい」と吐き捨てた相手に、にこにことハグを求めるアヤの変わり身の速さにも驚いた。さすがとしか言えない。  ぎゅーぎゅーと抱きつき合う二人に、冷静さを取り戻しながら俺もエレベーターを降りる。その足元に置かれたダンボールが目に入った。 「弥生くんホントに寮行っちゃうんだねえ」 「あ、聞きました? そうなんですよぉ。今も引っ越しの最中なんですっ」 「うう~。アヤ寂しー」  うるうると上目遣いに抱きつくアヤ。その頭をポンポン撫でながら弥生くんが微笑む。 「ボクも寂しいです。でももう一生会えなくなるって訳じゃないし、撮影でココ来たら二人に挨拶に来ますねっ」 「寂しかったらいつでも帰ってきてね?」 「うんっ。ありがとぉございますっ。じゃあボクそろそろ……」 「にゃっ。向こうでもがんばってね」 「アヤちゃん千尋くん、お世話になりましたっ」  最後にもう一度ハグをしてからアヤと離れた弥生くんに、足元のダンボールを手渡す。 「えっと……元気で頑張ってね」 「はいっ。千尋くんもお元気でっ」  にこにことダンボールを受け取る弥生くんに、一瞬全てを許されたように錯覚して心が軽くなった。  そう、それはほんの一瞬だけ。 「絶対、許しませんから」 「……っ、弥生くん……っ!」  エレベーターの扉が閉まる瞬間。冷たい表情で睨まれ、思わず身を乗り出そうとした俺の腕をアヤが思いっきり引いて止めた。 「にゃ。うっざーい」 「……」 「気にしなくていいよ。あいつがどう思ったって二人はもう恋人なんだから」 「……恋、人……」  そうなんだけどさ、思うんだ。  本当は、弥生くんが佐伯さんと結ばれるべきだったんじゃないかって。  エレベーターの扉をぼんやりと見つめていると、アヤがぎゅっと抱きついてきた。 「消毒~っ。弥生っちとハグしたから」 「ふ、俺なんかで消毒になるの?」 「うんっ。ちいちゃん綺麗だもんっ。大好き~っ」  大好き、そう微笑んで俺の胸に顔をうずめるアヤ。 (……大丈夫、)  佐伯さんもアヤも、こんな駄目な俺を好きって言ってくれるんだ。だからもっと自信を持とう。そして、二人の愛情に釣り合うような人間になるんだ。  不安感で真っ黒に染まっていた心にじわりと広がる暖かさに、ゆっくりと目を閉じた。

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