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「ヘマ、ト……え、何……?」 「ヘマトフィリア。血液嗜好症。異常性癖の一種」  けつえき、しこう、いじょう、せいへき、  拾った単語を、いつもより鈍い頭でなんとか組み合わせても、非日常的な答えしか生まれなかった。 「血が……、好きってこと……?」 「そう。血の味も色も匂いも温度も。全部快感に繋がる」 「……う、そっ、」 「毎日自分の身体切って飲んでた時期もあったし、精神病棟ぶち込まれた事もあったし……ヤってる最中に相手殺しかけた事もあった」 「……っ、伊織さんが言ってた、失血死って……」  あの言葉を思い出し、恐る恐る問いかけてみれば、佐伯さんはこくりと頷いて。 「そう。伊織はこの事知ってるから。一回意識しちゃうともう駄目。血が欲しくて欲しくて、歯止め効かなくなる……」  弱々しい声とは逆に、また抱きしめる力が強くなる。  これはきっと俺のためじゃなくて、かすかに震えている佐伯さん自身の身体をごまかすため。  昨日佐伯さんに聞いた話を思い出す。学生時代もホスト時代も、遊び相手――いわゆるセフレは何人も居たけど、特定の恋人は作らなかったって。  理由は教えてくれなかったけど、きっとこれがその理由だったんだ。  佐伯さんは優しい人だから、愛する人を傷つける事が怖くてたまらないんだ。 「ここ数年は落ち着いてたから依存抜けた気でいたんだけど、やっぱりまだ駄目だった。でもまた病院もちゃんと行く。もう逃げない、から……」 「……」 「だから、だから……俺を、捨てないで……」  この人は、そのせいで今まで何度捨てられて、何度傷ついてきたんだろう。  抱きしめられたままだから顔は見えないけど、震える肩も消え入るような声も、佐伯さんの涙を映す。  初めて見る佐伯さんの弱い姿。本当の姿。 「……」  その震える身体を一度だけ強く強く抱きしめ、思いっ切り腕を伸ばして離した。 「切っていいよ、」 「えっ……、」 「その症状? 性癖? のことは分からないけど……今無理なくらい我慢してるんでしょ?」  目を丸くしたまま固まる佐伯さんを横目にベッドサイドの棚を漁り、さっきのナイフを取り出して目の前に差し出す。 「俺の血、飲んで」 「え、でも……」 「いいから、早く」  佐伯さんの視線が俺の顔とナイフを何度か往復して、やがて観念したようにナイフを受け取った。  パチン、折り畳まれていた刃の部分が、小さな音をたてて姿を現す。  指紋ひとつ見当たらない綺麗な刃は、キラキラと光を反射させて輝いていて。恐怖で埋め尽くされていた先ほどとは全く違う印象を持った。  なんとなくその光を見つめていたら、佐伯さんの長い指が俺の手に触れて、緊張してガチガチに固まったそこから人差し指を掬い上げる。 「……本当に……いいの……?」 「……っ、」  もちろんいいよ。  そうにっこり笑って答える筈だったのに、乾いた唇からはかすかな吐息しか出なくて。  ああ、やっぱり嫌だ。痛いかな。怖い。  溢れてくるのはそんな臆病で自分勝手で不愉快な感情ばかり。  そんな自分が本当に嫌になって、全部かき消すように、佐伯さんの目を見ながらこくこくと何度も頷いた。 「……ありがとう、」  きっと佐伯さんは俺のくだらない感情も葛藤も全部見透かしてるんだろうな。  それでも文句なんか言わずに、この小さな覚悟にお礼を言ってくれた。  やっぱり、優しい人。  優しい優しい、俺の恋人。

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