121 / 126

3

「な、なんでいるの?」 「話あるんで来ました。アヤ最近俺のこと避けてるからこんな無理やりですみません」  撮影を無事に終えて乱れた呼吸を整えていると、慌ただしく動くスタッフの中に紛れてバスローブとペットボトルを差し出してきたのは竹内くんだった。  竹くんがNGならこの中から他の代役選んで。今日の撮影スタッフは、佐伯さんがそうやってめんどくさそうに見せてきたリストから選んだはずなのに。  自分の気持ちを自覚してからずっと会うのを避けていた。久々に会った変わらない姿にやっぱり胸が痛んだ。 「とりあえずシャワー行ってきましょう。終わったら大事なこと話したいんで」 「大事なこと……?」 「アヤちゃーん。シャワーこちらでお願いします!」 「あっ、はい!」  聞き返したアヤの言葉に竹内くんも口を開きかけたが、タイミング悪く他のスタッフに声をかけられてしまう。  呼ばれた先、シャワールームの扉に手を掛けながらもう一度竹内くんを振り返るが、そこにあった真剣な表情に思わず目を背けた。  大事な話ってなんだろう。  竹内くんの言葉が、表情が、ぐるぐると頭の中を埋め尽くす。それでもアヤの両手は自動化された機械みたいに勝手に自分の身体を綺麗にしていき、シャワールームの中はあっという間にシャンプーとボディソープのいい香りに満たされた。  なんだか息苦しさを感じて、その香りを胸いっぱいに吸い込む。 (とうとう結婚、するのかな、)  交際何年目だっけ。何年くらい彼女を大切にしてるんだっけ。だってアヤが出会った時にはもうすでにその存在があった。大切な大切な彼女さん。竹内くんの花嫁になることが夢の彼女さん。なのに、アヤがセフレなんかにして、 「っ、はあッ……」  息が苦しい。考えないようにしていたこと。目を逸らしていたこと。一気に襲ってきた。それも好意を自覚したタイミングで。まるで罰みたいだ。 『ニセモノ』 「ッ、」  竹内くんがそう呟く声が耳元で聞こえた気がした。鏡に目を向ければそこに映るのは紛れもない男の身体。アヤは女の子じゃない。アヤは女の子にはなれない。アヤは汚い。  だから、アヤは愛されない。 「やッ、はあッ……は、アっ…!」  息が苦しい。ずっと苦しい。何年もずっとずっと。  そんなのわかってるよ。  汚いアヤは愛されない。ニセモノのアヤは竹内くんを手に入れられない。 「アヤ? シャワー長いけど大丈夫っスか?」 「っ、たけうち、くん……」  突然かけられた声にびくりと肩が揺れる。竹内くんの声。さっきの幻聴なんか比べものにならないくらい、クリアで、穏やかで、優しい声。  大丈夫。そう返そうと開いた口からは、自分でもびっくりするくらい弱々しい声が溢れた。 「結婚、やだ……っ」 「へ?」  シャワールームの扉をノックしていた音がぴたりと止まり、代わりに間抜けな声が返ってくる。ああ、愛おしいな。でもアヤはこの人を手に入れることは出来ないんだ。 「アヤ、竹内くんのこと好きになっちゃったの…結婚しちゃやだ……っ、」 「アヤ……?」 「はァっ、でもアヤは、女の子じゃ、ないから……っ」  結婚も子どもも。女の子じゃないから、竹内くんの望む幸せは叶えることが出来ない。今まで顔を背けていた現実。実感すればするほど呼吸は苦しくなって、鏡に映る自分の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。 「アヤ落ち着いて。ゆっくり息して」 「ッ、もう優しく、しないでよぉ……っ」 「大丈夫。ゆっくり息して? おくすりここにあるからとりあえず開けて?」 「は、アっ…、おくすり……?」  大丈夫。おくすりに釣られただけ。ぐちゃぐちゃになった頭の中でもそうやって自分に言い訳を作って、シャワールームの鍵に震える指をかける。  扉をそっと開ければ、心配そうに眉を下げる竹内くんにふんわりと抱きしめられた。  やっと、息が出来た。 「良かったー開けてくれて。中でぶっ倒れたらどうしようかと思いました」 「うん……」 「まだ呼吸苦しい? どのおくすり飲む? いつもの安定剤?」  そうやって優しくするから諦められない、  報われない恋なんて苦しいだけなのに、  頭の中に簡単に浮かぶ、竹内くんと彼女さんの幸せそうな姿。ほらそうやって、残されたアヤはこんなにも惨めで、簡単にひとりぼっちになる。  視界がぼやける。ぎゅっと握りしめた拳にぽたりと涙が落ちる。  そんなアヤに竹内くんは笑みをこぼして。 「アヤ、俺も好きです。付き合いたいです」 「……え、?」  なんで?彼女は?結婚は?  望んでいたはずの言葉だったのに、いざ竹内くんの口から発せられても頭が全く追いつかない。  また呼吸が浅くなるのが自分でもわかった。でも目の前の竹内くんはアヤよりも先にそれに気づいて、抱きしめる力を強くする。 「彼女は、アヤが好きだから別れました。これは結構前だけど言えなくて、誤解させてすみません」  竹内くんの香りを深く吸い込むと、呼吸がどんどん楽になっていくのがわかった。 「避けられてるから俺とうとう嫌われたんかなって、今日玉砕覚悟で来たんスけど……俺のこと好きだから避けてたんですね?」 「う、るさいなあ……っ!」 「可愛いー。てかどのおくすり飲みます?」  片手を伸ばしておくすりのポーチを漁る竹内くん。  もう片方の手はしっかりとアヤの背中に回されている。  あったかい手。これが、今日からアヤだけの温度になるんだ。そんなこと信じられなくて、考えるだけで胸の奥が落ち着かなくなった。 「おくすり、いらない」 「ん?もう過呼吸大丈夫?」  大丈夫。一番の安定剤が目の前にいるから。  首を傾げて覗き込んでくるその優しい笑顔。大好きな笑顔。正面からちゃんと見つめて、ゆっくり唇を重ねる。あったかい。あったかい。 「……好き、」 「うん。俺も好きです」  憧れていたイチバンは、想像の何倍も恥ずかしくてくすぐったくて。想像の何十倍も何百倍も、あったかくて幸せだった。

ともだちにシェアしよう!