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第三章・冷たい雨が降る6

「マルニクス、ジェノキスと共に少し離れる。ここは頼んだぞ?」 「それは構いませんが、どちらへ」 「例のものを見せる」 「あれですか?」  マルニクスが少し驚いた顔になった。  その反応にジェノキスは目を瞬いた。マルニクスは多少のことでは動じないタイプだ。それなのにこの反応、リースベットがジェノキスに見せたいものはそれなりのものということである。 「驚きました。ジェノキスがお気に入りのようですね」 「おや嫉妬か? そなたに嫉妬させるのは気分がいい」 「馬鹿なことを。それより近日中に魔族と人間の戦闘が始まります。ご注意ください」  マルニクスは淡々とした口調で言うと全軍の指揮を取るために立ち去った。  冷静沈着な反応に、リースベットは肩を竦める。 「あの堅物め、面白くない奴じゃ」  つまらなさそうに愚痴ったが、特に気にしている様子はない。  これが二人のいつものやり取りなのだろう。  しかし素っ気ないように見えて、二人には強い信頼関係があるのが分かる。  一時休戦中とはいえ戦時下で精霊王が軍を離れられるのも、留守を側近に任せられるのも、全ては信頼関係があってのものだ。  そしてなによりジェノキスは気付いている。  マルニクスを見送る時のリースベットの瞳に。瞳の奥に帯びる切なさに。  精霊王と側近という関係だが、主従を超えて特別な関係であってもおかしくない。 「……なんじゃ、じろじろと」  リースベットがジェノキスを振り返った。  ジェノキスはニヤリと笑って首を横に振る。 「いいえ、なんでも」 「…………まあいい、行くぞ」  リースベットは苦笑すると、ジェノキスを連れて転移魔法陣を発動したのだった。  リースベットとジェノキスが転移したのは、海が見える崖の上だった。  鬱蒼と生い茂る山を背に、崖から望む大海原は太陽の下で輝いている。 「海、ですか?」 「見せたいものはこっちじゃ、ついてこい」  リースベットはそう言うとジェノキスとともに山に入った。  海の波音と潮の香りを背にして山の奥へ歩いていく。  しばらく歩くと山の中腹に岩が積みあがっていた。しかも強力な魔力を感じる。  ジェノキスは不審に思ってリースベットを見ると、彼女が真剣な顔で頷いた。 「見せたいものはこの奥じゃ。われの魔力で封じている」  そう言うとリースベットは魔力を発動させた。  魔法陣が展開し、積みあがった岩の下に通路が出現する。 「……精霊王直々の厳重な封印。俄然興味がわいてきましたよ」 「それは良かった。この場所を知っているのは精霊族でも限られた者だけ、心せよ」 「はい」  ジェノキスの緊張が高まった。  リースベットとともにジェノキスは地下通路へと足を進ませる。  暗い地下通路をしばらく歩くと広い空間に出た。  立ち止まったリースベットは光魔法で空間を照らし、そこに封じていたものを映しだす。 「っ、嘘だろ……」  ジェノキスは驚愕した。  なぜなら、そこにあったのはクラーケンの死骸だったのだ。 「どうして、ここにクラーケンがっ……」 「クラーケン? これはクラーケンというのか。三ヶ月前、海にこいつが現われたのじゃ。われが討伐したが、こんな怪物は初めて目にしたものでな」  リースベットが見せたかったのはクラーケンだったのである。  海にクラーケンが出現したのは三ヶ月前である。リースベットは初めて見る怪物に驚き、誰の目にも触れない場所で死骸を腐らせることなく封じたのだ。 「この怪物はなんじゃ。このような気味が悪い怪物はこの時代のものではない。十万年後では珍しくないものか?」 「とんでもない。十万年後でもなかなかお目に掛かれない代物です。できることなら、一生お目に掛からずにいたいくらいの」  ジェノキスは軽い口調で返しながらも険しい顔になっていた。 【クラーケン】ジェノキスがこの異形の怪物を目にしたのは二回。一回目はモルカナ国で封じられていたクラーケンが復活した時。二回目は冥王戴冠の失敗で冥界が混沌に陥った時。そう、四界が不安定な状態になった時に異形の怪物が出現するのである。  そして今、目の前にクラーケンの死骸。 「リースベット様、こいつが出現したのはここだけですか?」 「われが把握しているのはこの怪物だけじゃ。だが、他の王も捕獲や目撃をしているだろう。われのように討伐した王もいるかもしれないが、確かなことは分からない。情報交換などしたことはないからな」  当然である。敵対関係の王と情報交換などするはずがない。  だが、ジェノキスは背筋に冷たい汗が伝った。  もし異形の怪物が他にも出現しているなら、その意味は一つ。今、この初代四界の王の世界でなにかが起ころうとしているということなのだから――――。

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