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第七章・円環の呪い2

「…………」  イスラは当時のことを思い出しながら自分の手を見つめた。  あの夜、初めて人を殺した。  でもあの時、イスラは覚醒した力に昂揚した。誇らしいとすら思ったのを覚えている。  なぜなら、強さが尊ばれるこの世界で『生きていける』と思ったから。初めて抱き締めてくれたレオノーラを守ってやれると思ったから。イスラにとって、誰かに抱き締められたのは初めての経験だった。  そう、レオノーラに抱きしめられた瞬間、イスラは生まれて初めて他人を受け入れたのだ。  幸いにもレオノーラは重症を負いながらも回復した。  それからはイスラとレオノーラの関係が徐々に変わっていった。少しずつ距離が近くなり、以前よりも言葉を交わすことが多くなった。時には笑い合うこともあって、まるで本当の家族になったような気がしたのだ。  でも変わったのは二人の関係だけではなかった。力を覚醒させたことで部族内でのイスラの立場も変化していった。イスラの力は父親をも凌ぐもので、誰もがイスラに平伏して従ったのだ。  しかしそれをイスラの父親は受け入れられなかった。強さという矜持を失い、やさぐれたまま酒で泥酔している時間が多くなったのである。  イスラは邪険にされるようになったが、レオノーラがいてくれるので構わなかったのを覚えている。  自分を真に理解し、どんな時も側にいて、無条件に守ってくれるのはレオノーラだけだと思ったからだ。  だがイスラが十二歳になった頃、レオノーラの出生を知った。そう、レオノーラの村を襲って村人を殺したのは自分の部族だということを。  イスラは堪らなくなって父親である首領を問い詰めた。 『なぜレオノーラの村を襲った! 言え! どうしてレオノーラの親や村人まで皆殺しにっ……!』  泥酔していた首領はうるさそうな顔をしたが、動揺するイスラを見て愉快そうに笑う。  嘲笑を浮かべ、挑発するような口調でイスラを煽る。 『どうした急に、レオノーラになにか吹き込まれたか? あれは色気のある男だ。お前みたいなガキは誑かされても仕方ない』 『ふざけるなっ、レオノーラはそんなことしない! 俺に何も言ってくれない!』  イスラは怒鳴り返した。  もちろん首領を問い詰める前にレオノーラにも聞いたのだ。  しかしレオノーラは少し困った顔になって『もう昔のことです。子どもの時のことですから覚えていません』と答えただけだった。  恨むでも怒るでもなく、ただイスラを見て優しく目を細めたのである。  レオノーラは優しいから、だからイスラを責めなかったのだ。それなのに首領はおかしそうに笑いだした。 『なるほど、そうか、クククッ……。あれは化け物みたいな男だな』 『貴様ッ……!』  ドゴォッ!!  思わずイスラは首領を殴っていた。  父親だが関係ない、美しく優しいレオノーラを化け物呼ばわりするなんて許せなかった。レオノーラからすれば、村を襲った自分たちの方こそ化け物のはずだ。  一発じゃ足りない。二発、三発と殴り、四発目の拳を振り上げる。だが。  ガシッ!!  殴り掛かったイスラの拳が掴まれた。  首領は拳を掴み、顔面を血まみれにしながらもイスラを見据えて忠告する。 『レオノーラに気を付けろ。あれを信じるな』 『な、なにを……』  突然の言葉に動揺した。  イスラの動きが止まり、首領が淡々と言葉を続ける。 『あの村は滅ぼさなければならなかった』 『どういう意味だっ。レオノーラも村人もなんの力も持っていない人間だ! それをどうして殺す必要がある!?』 『決まっているだろう。人間にとって、いや、この世界に生きるすべてにとって脅威だからだ。力を持っていないからこそ殺さなければならない』 『いったい、なにを言ってるんだ……?』  意味が分からなかった。  訝しむイスラに首領は自嘲する。 『……すべては俺の落ち度だ。子どもだからとレオノーラを生かしておいたのも、お前に引き合わせたのも。あれも力無しの人間に変わりないのに、子どもだからと甘く考えていた……。どうした、信じられないか?』 『あ、当たり前だっ! レオノーラは俺を守ってくれて、側にいてくれてっ……!』 『信じるも信じないもお前の勝手だ。迷ったら連中の教会を探してみろ、すべてを知ってから判断すればいい。これは父としての忠告だ』 『ッ、なにが父としてだ!』  イスラは首領を突き飛ばした。  身勝手な忠告に怒りすら覚え、父親である首領を睨みつける。  しかし内心はひどく動揺していた。忠告は思いがけないほど真剣な顔で紡がれ、虚言とも戯言とも違うものだったのだ。  そんな会話を交わした数日後、部族内で妙な噂が囁かれるようになった。  それは『夜になるとレオノーラが首領の寝所に入り、朝まで出てこない』というものである。  嘘だと思った。そんなはずはないと思った。  レオノーラはいつもと変わらず優しくて、イスラの隣に静かに控えている。話しかけると嬉しそうに目を細め、慎ましげな笑みを浮かべるのだ。  その姿は清廉で、美しく、朝の木漏れ日のように無垢。それがとても綺麗だと心から思っている。  だから嘘であることを確信したくて、ある夜、イスラは首領の寝所が見える場所に身をひそめた。レオノーラが来るはずはない、そう信じていた。  でも、それは脆くも崩れ落ちる。  夜空の月が輝きを増す頃、レオノーラが首領の寝所に入っていくのを見た。  心臓が止まりそうになった。でもまだ信じない、すぐに出てくるかもしれない。だからイスラは息を潜めた。  だが。 『あっ、あん、ああ……ッ。首領さ……ま……ッ』 『んんっ、あッあッ、っ……ンンッ。ああっ、きもちいいですっ……、きもちいいですから、アアッ……!』 『首領さまっ、首領さま……ッ! ひっ、ああッ……!』  夜通し聞こえてきたのは、今まで聞いたこともないレオノーラの声だった。  艶めかしい嬌声に頭が真っ白になる。  こうして呆然としたまま夜明けを迎えた。  まだ薄暗い早朝に寝所から出てきたレオノーラを見た瞬間、心臓が握り潰されたかと思った。  夜の余韻を残したレオノーラは男の情欲を掻き立てるような婀娜を帯びている。それはイスラが初めて見る表情だったのだ。  イスラは堪らずに潜んでいた場所から飛び出し、動揺したままレオノーラを問い詰める。 『レオノーラ!』 『イスラさま……』 『レオノーラ、どうしてだ……。どうして、あんなことっ……』  イスラは声を荒げた。  否定してほしかった。イスラの見間違いだと言ってほしかった。嘘でもいいから。  しかしレオノーラは少し困った顔で話しだす。 『まだ子どものイスラ様に知られてしまうのは抵抗があったのですが……。はい、抱かれています。私からお願いしました』 『……え?』 『私は剣も訓練していますが、まだお役に立てるほど強くなっていません。だから首領様に体を捧げています。私をお気に召していただければここにいることを許されますから』  そう言ってレオノーラが優しく微笑む。  その微笑はイスラもよく知っているもの。清廉で、美しく、朝の木漏れ日のように無垢なもの。綺麗で、とても綺麗で。 『おかげさまで、今も生きています。昨夜もお気に召していただけたようですので、またイスラ様のお側にいることができます』  そう言ってレオノーラは満足そうに微笑んだのだ。  この時のレオノーラの微笑みをイスラは今もよく覚えている。  それからというものイスラはレオノーラを邪険にして遠ざけた。裏切られたわけでも、ひどい言葉を言われたわけでもないのに、足元からなにかが崩れた気がした。レオノーラを信じられなくなったのだ。  そして後日、首領は戦死してイスラが正式に部族の長となった。  イスラが首領になってから部族の勢力はさらに拡大し、今や勇者と呼ばれる人間の王となったのである。

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