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第七章・円環の呪い3

 イスラが自分の父親についてなにか特別に思うことはない。  今思い出しても心が動くことはなく、強い思い入れも浮かばず、興味もなかった。それは父親の方にとっても同じだろう。親子関係は希薄だったのだ。  だから首領が戦死しても寂しいという感情はなかった。  レオノーラも首領が戦死したことに動揺することもなく、悲しんだりすることはなかった。黙々と剣の腕を鍛えて、今では軍の中でも指折りの剣士の一人になっている。魔力無しにも関わらず剣の腕だけで居場所を作ったのだ。  今はイスラも、あの時にレオノーラが首領に抱かれていたことは仕方がないことだったと思っている。  初めて知った時は猛烈な怒りと激しい動揺に頭が真っ白になったが、レオノーラの境遇ではそうでもしなければ命の保証はなかった。  たとえ幼いイスラの世話役をしていたとしても、不審な思想や言動をすれば即座に殺されていたことだろう。実際レオノーラの親も村人もすべて皆殺しにされたのだから。  まだ子どもだったレオノーラにとって毎日が必死だったはずだ。生きるか死ぬかの境界線に立ち、生きるために権力者の首領に縋って、媚びて、体を差しだす。それと引き替えにひと時の安息を手に入れていたのだ。  それはイスラも成長するにつれて理解したが、それでも気持ちは追いつかない。  そこまでして生きたいものだろうか。恥辱に塗れてでも生きていたいと思うほど恵まれた境遇ではないだろう。魔力無しとして侮蔑され、虐げられるだけなのに、どうしてそこまで生きることに執着するのか。  イスラにはちっとも分からなかった。分かる気もなかった。  今もなに食わぬ顔で静かに側に控えているが、イスラは心から信じることはできない。  だがそんなレオノーラにも少し前に変化が訪れた。  それは魔王との戦いの時、撤退に遅れたレオノーラを置き去りにした時のことだ。  当然レオノーラは捕虜として囚われた。捕虜になればイスラの側近の一人なので間違いなく処刑されるだろう。  それを分かっていてイスラが助けに行くことはなかった。レオノーラが死んでもいいと思ったのだ。だから置き去りにした。  しかし一ヶ月後、レオノーラは帰ってきた。  イスラはレオノーラを一瞥し、苛立ちを覚えた。捕虜でありながら傷を癒され、清潔な服を着ている。それはあり得ないことだ。 『よく生きて戻ってきたな。殺されていると思っていた』 『私も殺されると思っていました。でも、今も生きています』  レオノーラの返事にイスラの心が重く冷たくなっていく。  思い出すのだ、あの夜の嬌声を。夜明けに見たレオノーラの微笑を。とても清廉で綺麗な微笑なのに、夜の余韻を帯びていた。 『次は魔王デルバートを誑かしたのか、あの男にしていたように』  イスラは嘲笑とともに言った。  それはイスラにとっていつもの悪態だ。レオノーラも軽く受け流し、いつものように少しだけ困った顔で微笑むのだと思っていた。  だが一瞬。ほんとうに一瞬、レオノーラの顔が泣きそうに歪んだのだ。  でもそれは瞬きのような一瞬で、レオノーラは少し困った顔で微笑んだ。 『そのとおりです、イスラさま。デルバート様を誑かし、またイスラ様の側に戻ってまいりました』  レオノーラは微笑んでいる。でもそれが泣き笑いのように見えるのは気のせいだろうか。  イスラは逃げるように目を逸らした。  しかしその微笑に確信する。レオノーラの身になにかがあったのだと。頑なな心を揺さぶるほどのなにかが。  そしてその何かは次の戦場でデルバートを見た時にすぐに分かった。レオノーラは気にする様子を見せなかったが、あの男は必死にレオノーラを探していたのだから。  イスラは戦場のデルバートを思い出してスッと目を細めた。  気が付けば、夜明けが近い時間になっている。  薄っすらと明るくなる空の下で、教会は燃え尽きて瓦礫が黒く焦げていた。  はたして今日、レオノーラは帰ってくるだろうか。  洞窟にはデルバートも滞在する。それは誰に邪魔されることなく二人は再会できるということだ。  レオノーラはデルバートの元へ行くかもしれない。  デルバートがレオノーラを連れ去るかもしれない。  イスラはそこまで考えて、……考えるのをやめた。帰ってこなかったとしても関係ないことだ。  イスラは教会を後にすると転移魔法陣で自軍に帰還する。  自軍に出現すると人間の兵士や従者に出迎えられた。レオノーラはまだ戻っていないようだった。  だが昼前、昨夜洞窟に泊まっていたレオノーラが帰ってきた。  そしてレオノーラは帰ってきたばかりでも休むこともせずイスラの元へくる。 「ただいま戻りました。洞窟で情報交換したことを報告いたします」  そう言ってレオノーラはお辞儀し、淡々とした口調で報告する。  昨夜はデルバートと再会したはずだがレオノーラに普段と変わった様子はない。  レオノーラは当たり前のようにイスラの元へ帰ってきたのだ。 ◆◆◆◆◆◆  翌日の朝。  洞窟に泊まっていた方々も、朝食を終えるとそれぞれの陣営に帰る時間になります。 「世話になった。また会うことになると思うがよろしく頼む」 「昨夜も今朝も最高にうまい飯だったぜ。また来る」  リースベットとオルクヘルムは上機嫌に挨拶してくれました。  宿泊が決まった時はどうしようかと思っていましたが、こうして満足していただけて良かったです。

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