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第十二章・三兄弟のママは神話を魔王様と5

「魔王様……」  小雨が降る中、妃がゆっくりと近づいてくる。  デルバートの前にくるとそっと身を寄せて背中に両腕を回した。  でも。 「……抱きしめてくださらないのですね」  妃の背中にデルバートの両腕が回されることはない。  デルバートは妃が懐妊してからは一度も体を重ねたことはない。子どもを作る以外に妃を抱く理由がなかったからだ。  そう、デルバートは血を残すことを自身の役目とし、妃にもそれを求めたのである。 「魔王様はわたくしに優しくしてくれるけれど、一度も愛してくださらなかった……」 「…………すまない」 「謝罪などいりません。……でもどうか、最後に御言葉をください。どうか、どうか愛していると一言おっしゃってくださいっ。偽りでも構いませんから、お願いですっ、どうか……!」  妃は必死に乞うた。  この三年間、デルバートは妃たちの望むものをすべて与えてきた。しかし最も乞われたものを与えたことはなかったのだ。  涙ながらに乞う妃をデルバートは見ていたが。 「……すまない」  デルバートは静かに言って、ゆっくりと妃の体を離させた。  デルバートは今生の際に立っても何一つ与えることはなかった。偽りさえも。 「魔王様っ……!」 「俺のすべてはレオノーラのものだ」 「っ、ぅ……っ」  追いすがろうとした妃の動きが止まった。 『レオノーラ』それはデルバートのかつての恋人。デルバートに心から愛されながら海に沈んだ存在。 「俺を恨むか」 「…………いいえ。……わたくしが満たされぬように、魔王様もまた満たされぬのだと存じております」  諦めた妃をデルバートは静かな面差しで見つめる。 「お前には感謝している。良い跡継ぎを生んでくれた」  次代の魔王はまだ幼いながら利発な男子だ。  きっと次代も成長して子を作り、後世へ繋いでくれることだろう。そう、十万年後の時代まで。 「部屋に戻っていろ。一人になりたい」 「……畏まりました」  妃は深々とお辞儀すると踵を返して部屋に戻っていった。  デルバートはそれを見送り、また海を振り返る。  ここからは山脈に隔たれて海が見えない。でもそれでも遠い海を見つめる。レオノーラが沈む方角を。  レオノーラの近くへ。少しでも近くへ。 「レオノーラっ……、……レオノーラ……!」  デルバートはレオノーラの名を繰り返す。  顔が見たい。声が聞きたい。触れて、口付けて、抱きしめたい。あの三年前の別れの時からずっとずっと渇望している。  本当なら今、ここにレオノーラもいるはずだった。  初代魔王の初代王妃として迎え、この世界でずっと一緒に生きていくはずだった。  それは手を伸ばせば届くはずの未来だったのだ。 「レオノーラ、会いたいっ……! 会いたいんだ、どうしても、どうしてもお前に会いたいっ……」  名を呼べば呼ぶほど渇望する。  記憶に残る愛おしい面影に胸が潰れそうだ。 「レオノーラ……」  デルバートは雨空を見上げた。  鉛色の空からしとしとと優しい雨が降る。  デルバートの孤独を慰めるように優しい優しい雨が降る。  デルバートは雨に打たれながら、その時を待つように佇んでいた。  その夜、デルバートは静かに息を引き取った。  五人の妃と五人の子どもが最期を看取ることを希望したがそれを許さず、デルバートは寝所に一人、雨音を聞きながら永眠した。  デルバートの永逝とともに朝から降っていた雨がやむ。それはまるでデルバートを見守っていたかのようだった。  初代魔王デルバート・崩御。  ――――人間界。  晴天の日、イスラは丘の小道をゆっくり登っていた。  緩やかな傾斜の小道はかつてのイスラならなんの労もなく登れたものである。しかし今のイスラの足取りは以前のように力強いものではない。三年前の結界発動で生命力が極端に削られたのだ。  結界によって世界が分かたれてから、初代勇者イスラは人間界の混乱を収めるために奔走した。人間界では有力者がそれぞれ集団を作り、土地を区切って領土としている。領土を巡って諍いが起こることもあったがイスラが仲介に入って穏便に収めさせた。  そんなイスラに人間たちは人間界全土を治めてほしいと乞うたが、イスラはそれを拒否した。人間の王でありながら勇者は玉座を造らなかったのだ。  イスラが人間のために働いたのはレオノーラが王は民の保護者であることを望んだから。その夢が深海に沈んだレオノーラを慰めるのだと言っていたから。ただそれだけだ。  そして三年の年月が過ぎて、イスラは気付いていた。自分の死期が近づいていることを。自分以外の初代王たちはすでにこの世にいないことを。  死期が迫る中、イスラは黙々と小道を歩き続けた。しばらくして丘の上にある岬に辿りつく。  海を臨める岬の先端に立った。その瞬間、――――ビュウッ……! 一陣の風が吹き抜けた。  全身で風を受けたイスラは目を閉じ、ゆっくりと開ける。  岬から臨む海は青空の下でキラキラと輝いていた。  イスラはまっすぐに海を見つめる。見つめる先にレオノーラが沈んだ場所がある。  そう、この岬は人間界の陸地で最もレオノーラに近い場所。だから死に場所はここだと決めていた。 「レオノーラ、来たぞ……」  イスラはぽつりと呟いた。  イスラがレオノーラのために出向いたのは初めてである。なぜなら、いつもはレオノーラの方からイスラの後ろに静かに控えていた。イスラの側にいるのが当たり前のように。  風が吹いてイスラの頬を優しく撫でる。  イスラは目を細めて静かに海を見つめていた。  イスラが岬に着いて一日目。  イスラは岬に着いてから一歩も動くことはなかった。  岬の先端に胡坐を組んで座り、静かに海を見つめていたのだ。  二日目。  イスラは岬から微動もしていない。  朝も昼も夜もずっとここで海を見ていた。  眠る時も岬から動くことはない。食事や水も口にすることはない。欲しいとも思わない。今はただレオノーラに一番近い場所にいたかった。  海を見ながらふと考える。  この場所を死に場所に選んだのはなぜだろうか。  イスラは、自分を慕っていたレオノーラを戦場に放置したことがある。邪険にしたこともある。蔑んで冷遇したこともある。そんな仕打ちを受けながらもイスラに執着するレオノーラに嫌悪を覚えたこともある。  だから自分がここにこうしているのは償いだろうかと、そう思った。  レオノーラが側にいて欲しいのなら側にいてやろうと、償いのつもりでここにいるのかもしれない。だから死に場所をここに選んだのかもしれない。  そんなとりとめないことを考えながらイスラは静かに海を見つめていた。  時折吹き抜ける風がただただ心地よかった。

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