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第398話

※薬物に関する表現、描写があります。 ご不快に思われる方は閲覧にご注意下さい。 「っぁ…俺」 「翼。翼、大丈夫か?」 そっと撫でられた髪と、ヒヤリと額に触れた手が、俺を優しく落ち着かせてくれた。 「っ…こ、こは」 「病院だ。例の病院の特別室だ」 あぁ。まるでホテルの一室のような、とても病室には見えないこの部屋には、見覚えがある。 「あ、あぁぁ…俺」 「あぁ」 「はっぁ、夢、か…」 怖い怖い悪夢を見ていた。俺の手の中から、すべてが消えてなくなっていくような。 「ひ、みや、さん。俺」 「あぁ。おまえに使われた薬物の後遺症だ」 「っ!」 「さすがに、やつが使ったのはかなりの上モノで、たちの悪い後遺症が出るような粗悪品ではなかったが…」 「っ…」 「だからといって、ゼロではない」 知ってる。 学校の薬学講座で習ったことがある。 一度でも触れてしまったドラッグと呼ばれる薬には、どれほど怖い依存性と後遺症が残るのか。 脅かすように教えられた。 「っ、俺…」 大丈夫だ。今は正気だ。 ぎゅっと握った左手の拳を、包み込むように右手を運ぶ。 「え…?」 ふと触れた左手の薬指に、触るはずのものがないことに気がついた。 「っ、あ、指輪!指輪がない!」 「翼っ?」 「火宮さんっ、俺の指輪」 そうだ。あの時、本城に無理矢理外されて。 「違うっ。ごめんなさいっ。俺じゃないっ。俺が外したんじゃっ…」 あれがないと。 刃が消えちゃう。 離れていなくなっちゃう。 途端に身を包んだ恐ろしいほどの不安に、バタバタと暴れて所構わず探そうとした俺は。 「チッ、翼!」 鋭い舌打ちと同時に、ぎゅぅっ、と痛いほどに身体を抱き締められて、ハッと目を見開いた。 「落ち着け、翼!」 「んっ、ぅ…」 ガバッと乱暴に塞がれた唇に、ヌルリと妖しい感覚が走った。 「んっ、はっ…」 「翼。大丈夫だ。落ち着け」 そっと宥めるように背中を撫でられ、ホッと力が抜けていった。 「あ…。俺」 「大丈夫。大丈夫だ、翼」 トン、トン、と落ち着いたリズムで背中に触れられ、ゆっくりと呼吸が整う。 「大丈夫だ、翼。指輪なら、ちゃんと回収してここにある」 そっとポケットに手を入れた火宮が、スッと引き出した手を上に向けてゆっくりと指を開いた。 ぽつりと火宮の手のひらに乗った指輪が、キラリと光を弾いている。 「っ…」 「悪かったな。拾って、検査があったから、そのまま戻さずに預かっていた」 「っん…」 ちゃんと見つけてくれた。 指輪は消えずにここにある。 誤解もしないでいてくれる。 それだけでホッと、安堵の息が漏れた。 「ほら」 嵌めてやる、と恭しく左手が持ち上げられる。 「っあ?待って!」 スッ、と指輪の外側を摘んだ火宮の指の中で、不意に内側の凹凸が目に飛び込んできた。 「それ…」 「ん?あぁ、見たことなかったか」 もらったときは浮かれていて、嵌めてもらったときは照れ臭くて。実はリングの内側なんてまともに見ていなかった。 それ以来、約束通り、1度も外したことのなかった指輪。 その内側に、刻印が。なにかの文字が彫られていることに、今、初めて気がついた。 「見せて下さい」 パッと火宮の手から指輪を奪い取り、ジッとその内側を覗き込む。 一瞬、砂に溶けて消えてなくなってしまうビジョンが過ぎって、震えた手を必死で宥めた。 「翼?」 「ジェ?マーチェ、ら?ビエ…」 何かの文章の前の、JとTの意味は分かる。 だけどその後に続いた文は英語ではなく、残念ながら俺の語学力では読み解くことが出来なかった。 「火宮さん」 「ククッ。Je marche la vie ensemble」 「え?なんて?」 流暢に読み上げられたところで分からない言葉に、傾げた首を笑われて。 ふわりと目を細めた火宮が、悪戯っぽく耳に唇を寄せてきた。 『俺は共に人生を歩いていく』 コソッと悪戯っぽく吹き込まれた日本語が、ぞくりと全身に広がる。 「っ、俺。俺っ…」 あなたの指輪にも、同じ刻印があるのだろうか。 「火宮さんっ…。刃。じんっ」 あなたがいるから。 「刃っ」 共に生きる、あなたがいるから。 「俺っ…」 ぎゅっと指輪を握り締めた手が震える。 「あぁ。2人の人生だ」 「っ…ん」 「苦しければ俺に当たれ。責めたければ俺を攻撃しろ。大丈夫だ、大丈夫。俺が全部受け止めてやる。おまえの苦しみは、全部俺がもらってやるから」 ぎゅぅ、と強く、そしてどこか優しく抱き締められた身体が、泣きたいほどの温かさに震えて。 「耐えるぞ」 「っ、はい」 「これから、辛いヤク抜きだ」 「っ、はい」 「地獄だぞ」 「っ、はい」 コクン、コクンと頷く顔から、パラパラと涙が散る。 「それでも俺がいる」 「っーー!はいっ…」 ーーJe marche la vie ensemble。 あなたと共に。 俺と一緒に。 「必ず」 そっと開かされた手の中から、指輪が静かに奪われて、あるべき場所へと、優しくそっと収められる。 「っ…」 カチン、と触れ合わせた指輪と指輪は、強い強い誓いの言葉の代わりだった。

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