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第426話

そうしてどうにか迎えた昼休み。 真鍋のおかげで、休んでいた分の授業に戸惑うことはなさそうでホッとする。 「俺も、今日はビビったわ」 カシャン、と屋上のフェンスに寄りかかりながら、豊峰が微妙な表情を浮かべて自分の手を見下ろしていた。 「どうしたの?」 「いや、授業さ。数学」 「うん」 「なんか、分かりそうな気がした」 手応えが…と、呟く豊峰の目に、じわりと希望の光が宿る。 「そっか」 「あぁ。今まで、どうしたってもう分かりようがないと思ってた異世界語がさ、なんか今日はちげぇんだよ」 「そう」 「あれ?これ昨日、真鍋幹部が説明してくれてた式?あ、この記号の意味は、昨日幹部サマに教わって分かる!みたいな?」 すげぇぇ、と感動を露わにしている豊峰に、俺までなんだか嬉しくなった。 「え、藍、なに。火宮くんちで、家庭教師までつけてもらっているの?」 不意に、昼食を調達に行っていた紫藤が、屋上への出入り口から現れた。 「和泉…ってまたカップ麺かよ」 「好きだね」 「まぁね。そういう藍はお弁当?」 豊峰の手に下げられた弁当袋を見て、紫藤の目が細められた。 「あー、うん。浜崎さんっつって、俺が今世話ンなってる部屋の蒼羽会の人なんだけど、料理がめちゃウマでさ」 「え!うそ、ずるい!俺も前に浜崎さんのお弁当が欲しいって言ったのに、火宮さんに全力却下されたんだよ?」 それをなんで豊峰がちゃっかり作ってもらっているのだ。 「はぁ?そんなん俺知らねぇし。昼メシとかの小遣いが尽きてきたから、なんかバイト紹介して、って頼んだら、作ってくれただけだし」 「なにそれ、本当ずるい。浜崎さん、調理師目指してて、本当に料理上手いんだよね」 食べたいなー、と豊峰の手元をじろじろ眺めたら、豊峰に全力で苦笑されてしまった。 「俺はおまえのなんたら牛のお重とか、どこぞの有名ベーカリーのサンドとかの方が、よっぽどいいと思うぞ」 「えー。じゃぁ交換する?」 名案だ! 「あー、いや、やめておく」 「はぁっ?」 「だってなんかそういうのに慣れたら、色々と失う気がする」 「なにそれ」 意味が分からないけど、きっぱり拒否する豊峰に仕方なく浜崎弁当を諦めたら、紫藤が隣でクスクスと笑った。 「なんだか僕の知らない間に、随分と距離が縮まっているみたいだね」 「えっ?」 「あー、まぁ色々あったし」 キラリと俺に向く紫藤の目には、確かに『嫉妬』が混じっている。 「で、家庭教師の話なんだけど」 さっき聞こえた、と笑う紫藤が、カップ麺を屋上の床に置いて座る。 「あー、それな」 「あはは。俺が勉強を見てもらっているついでに、藍くんも一緒に勉強させられているんだよね」 紫藤の隣に座って昼食を広げながら、俺は豊峰を見上げた。 「そう、それ。あの真鍋幹部のキビシーこと、キビシーこと」 でもありがたい、と笑ってストンと座った豊峰が、弁当を広げる。 「藍が勉強、か」 「なんだよ。悪ぃかよ」 「まさか。ようやくその気になったのかな、って」 ふわりと微笑む紫藤の目が、穏やかに薄く細められた。 「その気?」 「うん。お父さんと対決する気」 サラリと言われた紫藤の言葉に、俺は思わず息を吸い込んだ。 「し、どう、くん…」 「うん。藍はずっと諦めてきていたもんね。俺には最初から、ヤクザになるしか道がなくて、父親も組員もみんな、藍は豊峰の後継者だって決めつけて掛かって、自分の意志で選べる未来はないって」 ふわりと寂しそうに微笑む紫藤は知っているんだ。豊峰家の深い闇。豊峰の苦悩。 「藍はだからずっと、自分の追いたい夢を我慢して諦めて…」 「ッ、和泉…」 「けれど、やっと立ち上がってくれた?」 「ッ…」 「それをしたのが火宮くんだと思うと悔しいけれど」 「っ、違う…」 違うよ、違う。 豊峰は自分の力で。父親に大きな刃を突き立てられてようやく。 俺はたまたまその状況を作った形になってしまっただけで。 小さく首を振った俺に、紫藤はそれでも鮮やかに微笑んだ。 「それでも、嬉しい気持ちの方がずっと大きい」 「和泉…」 「建築家。なるんでしょ?」 「ッ、和泉、覚えてたのかよ」 「ふふ、忘れるわけがないでしょ。僕はずっと、藍が再びその夢を語ってくれる日を待っていたんだから」 ゆっくりと1つ、深い瞬きをした紫藤が、タタッとスマホを操作して、1枚の写真を表示させて見せた。 「っ…これ」 「うん。藍がかつて破り捨てた夢のかたち」 そこには、ビリビリに破れた紙を、セロテープで必死に貼り合わせた跡がある、とある美しい建物の写真が写っていた。 「ッ、おまえこれ、もしかしてまだ持って…」 「うん。皺を伸ばして貼り合わせて、大事に大事に保管してある」 「ッ、バカ…」 「うん」 ぎゅっと目を閉じた豊峰が、スン、と小さく鼻をすすった。 「全力で応援するよ。協力は惜しまない」 「ッ…」 紫藤の強い言葉に、パッと目を開けた豊峰の驚いたような瞳が、じわりと濡れて艶のある黒に変わった。

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