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第427話

「チッ、くそ、泣かせんじゃねぇよ」 「クスクス、泣いてるの?可愛い、藍」 「かわっ…はぁっ?バッカじゃねぇの!」 ヨシヨシ、と頭を撫でる紫藤の手を、豊峰がぶっきらぼうに振り払う。 「ふふ、昔もよくこうして、目を潤ませて、けれども泣くのを必死に堪えて誤魔化しながら、歯を食いしばって我慢している藍をよく慰めたっけ」 「なっ、バッ…翼の前で何言うんだよっ」 そんなのガキの頃だけの話だろうが、と叫ぶ豊峰の顔が、耳まで真っ赤だ。 「藍は、綺麗だ」 「は?な、和泉?」 「とても綺麗で、だからこそとても脆くて」 ぎゅっと手の中のスマホを握り締めた紫藤の目が、スゥッと細められ、遠いどこかをぼんやりと見つめた。 「藍が夢を諦めた日。絶望にその目の色を染めた日を、僕はずっと忘れなかった」 それは、豊峰と紫藤が出会い、互いの両親に内緒で、こそこそと逢瀬を重ねるようになった、ある日のことだった。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 「藍?どうしたの?泣いてるの」 いつものように、生垣の外に蹲り、ぎゅっと身を縮めて肩を震わせている豊峰を見つけた紫藤は、そっとその隣に腰を下ろした。 「また喧嘩?」 豊峰はいつもいつも、家が極道ということで、クラスメイトたちからはのけ者にされ、上級生や校外の不良グループからは、むやみやたらに絡まれる存在になっていた。 「………」 「負けたの」 多勢に無勢。いくら極道の息子だからと、豊峰はまだたったの小学4年。大勢の上級生に絡まれれば、1人では到底敵うはずもなかった。 「叱られた?」 喧嘩の傷に加えて、明らかに大人の手による折檻の跡を見つければ、答えは明白だろう。 「っ、いつもの、ことだし…」 「売られた喧嘩に尻尾巻いて逃げるな?買った喧嘩には必ず勝て」 「っ…ウチの看板に、泥を塗るな…。極道の息子が喧嘩に負けるなど情け無い。今日も…やりたくもない武道でしごかれて…」 「稽古という名の仕置き?ひどくされたの」 「いつもの、ことだし…」 繰り返す豊峰の手がくしゃりと何かの紙を握り締め、いつにも増した弱々しい声がその口から紡がれた。 「藍?」 「っ…嫌だって…」 「えっ?」 「いつもの、ことだけど…っ、今日は、我慢が、できなくなって…」 ぐすん、と鼻を鳴らした豊峰に、紫藤はハッと目を見開いた。 「藍」 「逆らったんだ。初めて。俺はやっぱりヤクザになんかなりたくなくてっ…俺は豊峰の家を継ぎたくなんかないからっ。俺には俺のやりたいことがある。だから喧嘩も、武道も、もうしたくないって…そしたら」 ぎゅっと歯を食いしばりながら、ゆっくりと顔を上げた豊峰の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れていた。 「っ、藍」 それまで一度だって、どんなに目を潤ませても、決して涙の1粒をこぼさなかった豊峰の涙に、紫藤の心が大きく揺さぶられた。 「そしたら親父は…」 「藍、これ…」 くしゃりと握り締められた、何かの紙を豊峰の手を開かせて取り上げて、紫藤はゆっくりとその紙を広げていった。 「っ…美、術館…?」 「前に1度だけ、家族旅行だって連れて行ってもらった、美術館」 「綺麗だね、とても」 「うん。驚いた。俺は、中の美術品より何より、この建物の美しさに魅入られて…」 「建築家…?藍、建築士になりたいの?」 ゆっくりと豊峰に視線を向けた紫藤の前で、豊峰の頭が静かに上下した。 「うん。俺は将来、建築家に、なりたかった」 「っ!」 なりた『かった』。 豊峰の口から出た言葉が過去形なことに、紫藤は悔しい思いで気がついた。 「だけど、親父にこの写真を見せたら、親父は、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた」 「っ…」 「俺には必要ないって。俺は極道になるのが決まっていて、将来は豊峰の組長を襲名するんだから、夢や、希望や、建築家になりたいなんて意志はいらないって。俺の目の前で、俺の夢を握り潰した」 「っ、藍…」 くしゃくしゃに握り潰されたその写真を紫藤の手から引ったくるように取り戻して、豊峰は泣きじゃくりながらそれをビリビリと破り始めた。 「駄目だって!俺は建築家になりたいなんて夢を持っちゃ駄目なんだって!」 「藍っ…」 「俺は極道ん家の一人息子で、将来は豊峰組組長でっ…。そうなるのが当たり前の、ただの…」 ビリビリ、ビリビリと破り捨てられていくその写真が、豊峰のズタズタに引き裂かれた心のように思えて、紫藤はたまらず豊峰を抱きしめていた。 「藍」 「いいんだ。いいんだ、もう。俺にはヤクザになるっていう道しかない。俺は極道ん家の一人息子。大勢の組員のために、俺1人の我儘なんか通しちゃいけない。俺は豊峰家に生まれた、豊峰の頭に立つためだけのただの人形…」 意志はいらない。 そう、真っ暗い目をして呟く豊峰を、同じくまだたったの小学4年生の紫藤は、掬い上げてやることができなかった。

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