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第430話

それから、1位を目指すという俺と、30位以内に入るという豊峰の目標を達成するべく、真鍋が毎日家庭教師をして尽力してくれた。 やる気は出たものの、それと身体は別物らしく、やっぱり家庭教師中に居眠りをしては、手を腫らす日々を豊峰は送っていた。 そうして、期末テストの2日前。 「では本日は、確認テストといいますか、これまでの成果がいかほどか、小テストをいたします」 ペラ、パラ、と渡されたのは、真鍋手製の意地悪テストで。 「げ…」 「うわー、ありがとうございます」 これが解ければ本当、本番が怖くない。 「ありがたい?」 「うん。最後に弱点や覚え間違いがチェックできるし」 「でもテストって」 名前がつくだけで嫌だ、と顔を歪めている豊峰に笑ったところで、真鍋の冷ややかな声が割り込んだ。 「では1教科30分の計算で。そちら3枚を、90分間でやり終えて下さい。はい、始め」 苦情も文句も受け付けず、さっさと開始の合図をした真鍋に慌ててしまう。 それは豊峰も同じだったようで、「はぁっ?」とか、「ちょっ、タンマ」とか喚きながら、ガチャガチャとペンケースを探っている。 「私はこちらで仕事をさせていただきますので、時間より早く終わった場合は声をかけて下さい」 では、と、真鍋はリビングのテーブルから、ダイニングテーブルに移動し、書類やパソコンを広げ始めている。 『よし』 俺は気合いを入れて問題を解き始め、隣では豊峰が、ガリガリと問題を解きながら、時折唸っていた。 * 「はい、そこまで」 「っ…うん、よし、見直しまで終わった」 「くそっ、後2問」 真鍋の声で、カラーンとシャープペンを手放した俺は、そこそこ手応えのあったテストを満足と共に重ねていった。 「では私はすぐに採点いたしますので、その間、お2人はくつろいでいて下さって構いませんよ」 俺と豊峰からそれぞれテストを受け取って、真鍋は再びダイニングテーブルに向かい、採点を始める。 「ふぅ。どう?藍くん、できた?」 両足を伸ばし、うーんと伸びをしながら、隣の豊峰に顔を向ける。 「あー、どう、かな。まぁなんか、解けたような気もするけど…」 「そっか。あ、何か飲む?」 「んー?炭酸、なんかある?」 「炭酸?あるよ」 選ぶ?と、俺は豊峰を誘ってキッチンに向かった。 「へぇ、意外と生活感あるじゃん」 「えっ?あ、キッチン?俺が使っているからねー」 鍋が出しっ放しになっていたり、包丁やまな板が乾かしてあったり。 「はっ?翼、料理すんの?」 「するよ。夕食は大体自炊だし、火宮さんが帰れる日は、俺が作って一緒に食べるよー」 どれにする?と、冷蔵庫のジュースホルダーを見せながら、俺は豊峰を振り返った。 「は?あの会長サンに、手料理?」 「うん」 「会長サンが食うの?」 「食べるよ?普通にカレーとかハンバーグとか」 「はぁぁぁっ?会長サンがんな庶民料理…」 目を丸くして驚いている豊峰は、何がそんなに不思議なのか。 「えー、俺、あの人はオール外食で、洒落たフレンチだとかイタリアンだとか、和食でも懐石とかそういうのしか食べねぇと思ってた」 「あはは。確かにそういうイメージあるよね。俺も初めの頃は、俺なんかの庶民手料理でいいのか?ってドキドキしてたよ」 クスクスと笑いながら教えてあげたら、豊峰が唸りながら、柑橘系の炭酸飲料を選び取った。 「俺これもらうわ。でも作ってやって、会長サンも食うんだろ?」 「うん」 「愛だねぇ。おまえ、マジで妻じゃん」 手料理って!と笑う豊峰が、プシュッと景気良く炭酸飲料のペットボトルのキャップを開ける。 「妻って…」 「極妻。ぷぷっ、マジで姐さんかー」 翼がなぁ?と目を細める豊峰が、炭酸を一気飲みしている。 「くぅーっ、クるぅ」 「喉痛めそう」 見ているこっちが顔を歪めてしまう。 「うめぇ。なーぁ、でもさ、おまえんち親は?」 「っ、え…?」 「反対とか、しなかったのか?っていうか、おまえの親はどんなん?」 そうだよね。ヤクザの嫁にと『息子』を渡す親…。 豊峰からはそう見えるだろうそれに、俺はにっこり笑って首を振った。 「いない」 「へっ?え、あー…」 ごめん、と気まずそうに視線を逸らす豊峰に、俺は重ねて首を振った。 「いいよ。俺はもう乗り越えてる」 「っ…」 「俺の両親は、俺を1人遺して死んだんだ。自殺。借金を苦に。だからもうこの世にはいない」 「っ、それ、乗り越えてるって…」 小さく震えた豊峰の声に、俺はどこまでも笑顔を向けて見せた。 「うん。火宮さんに出会って、俺は救われて…。俺は、2人が選んだ答えを、もうちゃんと受け入れてる」 1人置いていかれたこと。 たった16ぽっちの子供を、たった1人で残すと分かっていながら、生きてくれなかったこと。 「恨んでねぇの?」 「うん」 「憎くねぇの?おまえを辛い世界に1人残して、自分らだけ楽になろうとしたような親じゃねぇか…」 「うん。そうかもね。だけど」 パニックになって、絶望に落ちたときには、俺も一瞬そう思ったけれど。 「2人は、もしかして、俺のことを、殺せなかったんじゃないかな、って」 「は…?」 「どんなに過酷な道が待っていようとも、それでも。それでもどうしても、俺には生きて欲しかったんじゃないかなぁ」 俺が2人に対してそうだったように。 どんなに辛くても、死んだら終わりなんだ。 楽になるんじゃない、無になるんだ。 なにもかもが消えて、なんにもなくなる。 「2人はね、選べなかったんだよ。俺を消してしまう道」 「っ、そんなの…」 「うん。親のエゴだよね。だけど、それでも、存在(あ)ることを望んだのは…」 今なら分かるよ。確かに言える。 「愛だよ。父さんと母さんは、俺のことを、とてもとても愛していたんだ」 2人が選んだその答えは。 愛しているから連れて逝けない。 愛しているから生きて欲しい。 ただ、生きていて欲しい。 それがどれほど俺を苦しめる答えだとしても。 俺から、俺の生を、奪わない。奪えない。 2人が最期に示した、それは痛いほどに残酷な愛なんだ。 「っ、おまえは…おまえの親は…」 「藍くん?」 「はっ、おまえのそのしなやかさ。眩しいくらいの強さ」 「っ…」 「おまえが今、そんな風に両親のことを言えんのはやっぱり、2人がそんだけおまえを大切にしてきてくれたってことなんだよな」 どっかの親とは大違いだ、と豊峰は吐き捨てる。 「おまえは死んでも構わない…。あいつは簡単に言った」 「っ…」 『おまえは死んでも会長の大切なお方をこちらに帰すんだ』 『藍の無事や命など構いませんから、イロを助けて下さい』 あの日、あの時、豊峰の父親が言った言葉が蘇る。 「藍くんっ…」 「へっ。ひでぇよな。実の息子に向かって、死ねだって」 「っ、それは…」 「おまえの親は、最後の最期まで、おまえの生を望んでいたのに」 はっ、と鼻を鳴らして吐き捨てる豊峰は、それでもその声に、言葉ほどの投げやりな感じは含まれていなかった。 「藍くん…」 「っくしょー!悔しいよ。腹立たしいぜ」 「うん」 「だから、だからな、俺は、生きてやろうじゃねぇの」 「えっ?」 「生憎俺は、まだまだ絶賛反抗期中なんでね」 「藍くん…」 「死んでいいなんて言われたら、逆に死んでなんかやるかよ」 「っ…」 「あいつが我が物顔で左右する俺の人生、あいつのためになんかぜってぇ使ってやらねぇ」 ゴクゴクと一気に炭酸を喉に流し込んだ豊峰が、握ったペットボトルをベコッと潰した。 「翼、よく聞け」 「藍くん?」 「俺は俺のために、俺の人生を生きるんだ」 に、ぃっ、と豊峰が不敵に笑ったとき。 「お2人とも、採点が終わりました」 ダイニングの方から、淡々とした真鍋の声が割り入った。

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