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第449話

「哀しいですね…」 「翼さん?」 「寂しいですよ、そんなの」 ポツリと落ちてしまった俺の声に、豊峰組長が苦笑した。 「あなたたちは、まだ…」 互いに話せる場所にいる。 まだ分かり合える可能性が少しでもあるのに。 小さく震えてしまった俺の肩を、そっと宥めるように隣の真鍋の手が撫でた。 「っ…」 「豊峰組長」 「なんですかな?」 「私と、そしてこの翼さんには、もう両親がおりません」 「っ、真鍋さん…」 まるで俺の心を見透かしたかのような不意の真鍋の言葉だった。 ハッと隣を見上げた顔が、ゆるりと目を細めて、コクリと頷いた真鍋を見つける。 「っ…話したいと思ったときに、その相手はもういない。『今』を逃せば、『いつか』はもう来ないかもしれない」 楽観的に構えて、機会を逃したその結果、いつかどうにもならなく、取り返せない時があることに気づくんだ。 それを俺も、真鍋もきっと、痛いほどによく知っている。 「あなたは後悔しませんか?」 そのときどんなに渇望しても、2度と手に入ることのないチャンス。 「話せるときにもっと話を…手を伸ばせば届くところにいる間に、もっと…。それを自ら突き放して手放して…あなたは後悔しませんか」 ジッとその目を見つめた俺に、豊峰組長は揺らがぬ視線を返してきた。 「しません」 「っ、豊峰組長さん…」 「後悔はしませんよ。俺は、決していい親ではない。一生、藍には憎まれ続けていられたら、それがいい…」 ストン、と目を伏せた豊峰組長の口元に、薄い薄い笑みが浮かんだ。 「互いにそれが、幸せです」 っ…嘘、だ。 この人は、嘘つきだ。 『だったら何故…』 喉元まで出かかった言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。 だったら何故、今俺から目を逸らして俯いたんですか…。 代わりにスッと立ち上がり、ゆっくり深く息を吸い込みながら、目を閉じる。 吐き出す吐息とともに、ゆるゆると持ち上げていった瞼の向こうで、ジッと豊峰組長を見つめる。 「最後に1つだけ教えて下さい」 「………?」 「あなたは何故、あのとき、藍くんの命を見捨てようとしたんですか?」 一息に告げた俺に、豊峰組長の顔がピクリと震えた。 「包み隠さない本心を、俺にだけ、教えて下さい」 暗に真鍋はいないものと。真鍋には聞かなかったことにしろと。 伝えるつもりでそう告げた。 「っ、翼さん…」 「豊峰…さん」 そっと呼びかけた俺に、豊峰組長の顔がくしゃりと潰れた。 「ッ!………っ、仕方が、なかったんですよ。蒼羽会さんの大事なお方の前で、そちらはどうでもいいから、うちの息子を助けて下さいなどと、どの口が言えますか?」 「………」 「藍を救って下さい。藍を助けて下さい…俺がそう叫んだ瞬間、うちの組はどうなりますか?」 潰される。 それが簡単に思い浮かぶくらいには、ヤクザ社会のことが分かりかけていた。 「うちの組にいる舎弟や組員たち…彼らもまた、俺の息子同然なんです。ここにしか行き場のなかった者たちばかり、ここにしか居場所のないものたちばかり。俺はその『家』を、守らなくてはならない…」 苦しそうに唸るこの人は。 あぁそうか、この人も。 また、一組織の長なんだ。 「藍に憎まれることは承知で…。藍を失うことは承知で…」 あぁ、本当、嘘つきだ。 だったらどうして泣くんだろう。 「心」がまったく納得していない証の涙。 「選べるわけがない、んです、よね…。息子の命より、組織を」 それより大切なものなど、どこにもあるわけがない。 この人は、自らを喪う気で…。 「本心が聞けてよかったです。ありがとうございました。それから、ごめんなさい」 「っ…く」 「お約束通り、俺の心の中だけに黙ってしまっておきます」 あなたの捨て身のその賭けと本音。 「さようなら。お邪魔しました」 「っ、ぅ、くっ…」 「次にお会いするときは、豊峰組組長と、蒼羽会火宮の連れですね」 親友の父では、もうない。 スッと身を翻して、スタスタと部屋を横切り、襖を開けて廊下に出る。 振り返らずに、斜め後ろを付いてきた真鍋の気配を感じたところで、衣擦れの音がそっと耳に触れた。 「藍をよろしくお願いします」 振り絞られた切実な声が、掠れた音となって届いてきた。 黙ってそれを受け止めた俺は、そのままその場を後にした。

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