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第486話

シン、となった空気の中、俺はぎゅっと唇を噛み締めた。 「それでは、今日はこれで…」 上座に座った七重から、何か口上が聞こえてくる。 けれども俺の視線は、霧生が連れ出されて行った襖の向こうに釘付けのまま、その声も耳を素通りさせていた。 「翼」 不意に、ふわりと頭に優しい手の感触が乗った。 「っ、ぁ…ひ、みや、さん」 ハッとして、ようやく襖の向こうから視線が剥がれる。 「ふっ、あんなやつに、おまえの心のひとかけらもやるものか」 「んンッ。んーっ!」 ちょっ、いきなり顎を取られたかと思ったら、こんな人前でいきなりキスって…キスって…あれ? 「ククッ、もうみんな、とっくに退室している」 チュッ、と音を立てて離れて行った唇が、意地悪く弧を描き、意地悪な視線が俺を見つめた。 その口から紡がれた言葉に、ふと室内を見回せば、確かに居並ぶ男たちは1人もいなくなっていた。 「っ、でも七重さんがっ…」 「はっ、そうだぞ、火宮。ったくおまえたちは相変わらず見せつけてくれる」 やれやれと扇子を振っている七重が呆れたように目を細めた。 「ククッ、幹部連中が退室するまで我慢したことを、むしろ褒めて欲しいものですけどね」 「ふん。霧生か…。あれは…おまえへの憧憬で済んでいるうちは置いておく価値もあったものだが。何をトチ狂ったか」 踏み越えたか、と俺にチラリと視線を送ってくる七重にハッとした。 「あ、なた、たちは…」 それはそうだ。 俺ですら気づいた霧生の視線の意味に。俺よりずっと「出来る」この2人の男が、分からないわけがないのだ。 「クッ、泣きそうな顔をしていたぞ」 「え…」 「あんなやつに寄り添うことなど、俺は許さない」 っあ…。 そっか。すべてを見透かしていて、その上でのあのキスか。 「っ、も、本当、敵わない」 全力で、俺のすべてを持ち去るあなたに。 そしてそれを、狂おしいほどに嬉しいと思わせてしまうあなたに。 「ククッ、おまえは俺のものだ」 「そ、うですね。あなたのお陰で、俺は全部あなた色です」 消え行く霧生のことなど、不意打ちのキスですっかり霞んでしまった。 「でもその、絶縁って?」 「あ?」 なんだかよく分からないけれど、痛いことをされたり、半殺しにされちゃったりより、とっても軽くて簡単な感じがするんだけど…。 「ふっ、火宮。翼くんは堅気だろうが」 「そうでしたね…」 新鮮な質問だな、と苦笑する火宮が、それでも俺に分かりやすいようにと口を開いてくれた。 「絶縁は、文字通り、オヤジ…つまりは七重組との縁を絶たれるということだ」 「……?」 「オヤジと親子盃を交わした2次団体の長であった人間が、だぞ?「絶縁状」や「除名通知」の回状を各組織に送られる」 「回状…?」 そうするとどうなるのか…。 「ククッ、霧生はな、もう2度と、どこの組織でも、相手にしてもらえなくなるということだ。ヤクザ社会からの締め出しさ」 「っ、あ…」 「クッ、分かったか?霧生ほどの地位にいた人間だ、今さら足を洗って一般社会に戻るなど出来るわけがない。だからといって、ヤクザ社会にも居場所がなく、あいつはこのまま路頭に迷うしかなくなる」 ニヤリ、と酷く黒い笑みを浮かべた火宮に、俺はその制裁の惨さが分かって色々と納得した。 「一時は2次団体の会長まで務めたような男だぞ?それが、底辺も底辺。裏社会の地べたを這いつくばって生きていくしか道がなくなるんだ。クッ、俺なら死んだ方がマシだと思うだろうよ」 「っ…」 「それだけのことをあいつはした」 だから、だからこの人は、いつもみたいに霧生をグチャグチャになるまで拷問しなかったのか。 「この先一生が拷問なのさ。まぁその一生が後どれくらいの長さがあるかは知らないけれどな」 「え?」 「プライドが高ければ高いほど、死までの道のりは短い。それに、一切の後ろ盾をなくしたと言っただろう?これまであいつに恨みがあっても、その地位ゆえに手出し出来なかった連中が、喜び勇んで食いに行く」 クックックッ、とどこまでも愉しげに喉を鳴らした火宮は、やっぱりヤクザでどSだな、とぼんやりと思った。 「さぁ、もう霧生の話はそれくらいでいいだろう」 「そうですね」 ポン、と閉じた扇子で膝を打った七重に、火宮が軽く頷いた。 「それよりも火宮」 「なんですか?」 「なにやら夏に休暇を取り、翼くんたちとバカンスに行くそうじゃないか」 に、ぃっ、と人の悪い笑みを浮かべる七重に、火宮の纏うオーラがピリッと色を変えたのがわかった。 「どこから調べるんですか、そういう情報…」 「ふはは。俺もまだまだ現役だぞ」 「チッ。確かですが、それが何か?あぁ、オヤジもちゃっかり参加したい、なんていう話なら、先にお断りです」 好々爺然とした七重に負けじと、火宮の人を食ったようなニヤリとした笑みが炸裂する。 「本当、おまえは上を上とも思わないその言動」 他の幹部連中がいたら卒倒するか斬りかかられるぞ、と、物騒な発言をしながら七重が笑う。 「どこの広域指定暴力団の最高幹部が、こどもの遊びのバカンスに顔を出すんですか」 「ふん、それをいうなら、その中の抜きん出て力のある組織の頭が、こどもの遊びのバカンスか?」 「俺は恋人との熱い夏休みです」 「ゴロゴロと、ガキどもや真鍋たちを引き連れてか」 「こいつのたっての希望ですから」 ぐい、と突然火宮に抱き寄せられ、なんだか巻き込まれそうなこの怪しい雲行きは…。 「そうか、なるほど。ではその翼くんを絆せば…」 「っ!」 「ふっ、翼。間違っても、オヤジも一緒に、だなんて言い出すなよ?」 「ひっ…」 「火宮」「オヤジ」なんて、バチバチ火花を散らし始めた2人に、俺は間でただ被害が及ばないように縮こまるしかない。 互いにそれなりに大きなヤクザ組織を束ねる頭だというのに、顔を合わせればこの子供じみた言い合いはなんなのか。 無駄に巻き込まれる俺の身にもなって欲しい。 とにかく俺はただひたすらに、この言い合いのとばっちりを受けないように、早く終わってくれと願いながら、頭の上を飛び交う言葉の応酬を息を潜めて聞いていた。

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