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第516話

そこからはもう1人で遠泳……なんてするわけもなく。 寄せては返す波にプカプカと浮かびながら、のんびりと浅瀬で水と戯れていた。 遠い浜辺では、相変わらず火宮が、この暑い中、涼しい顔をして、パラソルの下、ビーチチェアの上で、のんびりとカクテルを傾けている姿が見える。 「ふぁぁ、本当、あぁしていればイケメンなのに」 ブクブクと、海水に身を沈めながら、恨みがましくそんな火宮を見つめてしまう。 その視線に気づいたか、クイッとサングラスを軽く下げ、ニコリと笑いかけてくる仕草に、胸がドキドキしてしまう。 「口を開けば意地悪、1つ動けばどSのくせにー」 あーぁ、また隣で部下さんたちが、その惜し気もない笑顔にワタワタしているよ。 ギョッとして、目を彷徨わせて、その後なんとも複雑な顔をして、アセアセと動揺している姿が、こちらからはよく見える。 「ぷぷっ…」 あまりに可笑しくて、クスクスと笑ってしまいながら、俺はスイーッと顔を出したままの平泳ぎで、海面を砂浜に沿って移動した。 「わぷっ!」 不意に、少し高い波が真横から押し寄せ、俺はバランスを崩してザプンと海に転がった。 一瞬上下を見失い、バシャンと無駄に手が水を掻く。 ーーーあー、向こうが海面か。 この浅瀬、この程度のことで溺れるわけもなく、俺はすぐに太陽の光が見える海上の方向をつかんで、パシャッと海の中から顔を出した。 「翼っ!」 ザザーンと波が引いていく音の合間に、俺を呼ぶ慌てた声が聞こえた気がした。 「へっ?え?」 まさか。 いや、まさかね。 フルフルと、髪から滴る海水を振り払っていた俺は、パチリと開いた目の先に、思わずといった様子で立ち上がり、バシャッとカクテルを足元に零してしまっている火宮の姿を捉えた。 「か、会長っ?」 「会長、お怪我はっ?酒でお汚れには…」 慌てたように火宮を心配する部下さんたちの声が、風に乗って流れてくる。 「ふ、ふふふふ、ふふっ」 なにこれ。面白い。 あの火宮が動揺している。 思わず悪い、悪ぅい考えが頭をよぎって、俺は、にまぁっ、と持ち上がっていく自分の頬を自覚していた。 「火宮さーんっ!助けて!足が攣った!」 バシャバシャと水を叩き、大声で叫ぶ。 もちろん俺の身体はどこも悪くない。いたって健康体そのものだけど。 もしかしたら今の火宮なら、俺の言葉に、海の中に飛び込んできてくれるかもしれない、なんていう悪戯な気持ちがあった。 「火宮さーん」 ブンブンと手を振って、こっちに来てとアピールする。 あわよくば、間近まで来た火宮を、そのまま海の中に引きずり込んでやろう。 そろそろ1人で泳ぐのにも退屈し始めてきていた俺が、内心で企みを浮かべたところで。 「会長!ここは我々がっ」 サッと火宮の前に出て、こちらに駆けて来ようとしている部下さんの姿が見えて、俺はぎゅっと眉を寄せた。 お呼びじゃないー! 来て欲しいのは火宮なのに…。 困惑は多分、そのまま顔に出た。 「っ!」 ニヤリ、とサディスティックに持ち上がった火宮の頬が、これだけ離れた場所にいても、何故かハッキリと分かった。 やばい、バレてる…。 「構うな、俺が行く」 サッと部下さんを押し退けて、その前に足を踏み出した火宮が、僅かに足を止めて、部下さんに何かこっそりと耳打ちした。 「はっ、え?いや、あのっ、は、はいっ!ただいまっ」 明らかに動揺を見せた部下さんが、それでも転がるように別荘の方へと戻って行った。 「うわー、一体何を命じたの…」 きっと俺にとってはろくでもないことだ、というのは、意地悪く微笑んだ火宮のその顔を見たら簡単に分かった。 「クッ、翼。とりあえずおまえは、そこから出て来い」 サクッと砂浜の砂を踏み鳴らして、波打ち際まで歩いて来た火宮が、俺に向かってクイッと顎をしゃくった。 「っ…」 だから足が…なんて虚言は、もうこの状態で言い募れるはずもなく。 「ふん。さっき嘘をついて、散々尻を叩かれたばかりではなかったか?」 その頭はザルか。と皮肉に笑う火宮に、ギクリと身体が強張る。 「それとも仕置きが足りなかったか?」 「っ、違っ…」 確かにさっきは充分反省したし、もう火宮を謀ろうとなどするまいと思ったのは本当だ。 だけどただ、だけど。 「ちょっとだけ、嬉しかったんです…」 「嬉しい?」 「火宮さんが、俺を心配して、部下さんたちの前でも構わずに取り乱してくれたこと」 「はぁっ、おまえはな…」 呆れた、と額を押さえる火宮に、くしゃりと顔を歪めてしまう。 「だって…ちょっとだけでいいから、一緒に泳ぎたかったんです」 火宮が洋服なのはわかっているけど。 海水でベタベタになんて、ヤクザの会長様がなってくれるわけがないのはわかっているけれど。 「せっかく、海に来たのに」 ボソリと呟いてしまったこれは我儘だ。 分かっているから俯いて、ぎゅっと唇を噛み締めてしまった俺に、火宮の長い長い吐息が落ちた。 「まったく、おまえはな」 はぁぁっ、と呆れたような深い溜息に、ビクリと肩が震えてしまう。 恐々と、顔を持ち上げていった俺の耳に、波の音ではない、パシャンと水を跳ねる音が、微かに届いてきた。

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